下流とは思ひ難けれ。筒井づつのむかしふりわけ髪を風に吹かせて竹馬などに打ち乗り山を攀ぢ石に上りわめき叫んで遊びくらせし故郷の友どちを十年あまりの後にあひ見れば顔かたちよりなりふりまで尽くおとなびてとみには其人と思ひ得難き心地ぞする。舟は矢を射るが如く移り行く両岸の景色に興を催す折柄木曾河第一の難所にかゝりたり。渦巻く波忽然と舟の横腹を打ちて動揺するにまづ肝潰れてあなやと見れば舟は全く横ざまに向き直り船頭親子は舟の両端にありて櫓をあやつる。やう/\にここを過ぐれば河流直角に曲るに舟は向ふの岸に突き当らんず勢なり。そを曲げて舟を転ずればまたかなたの岸辺に屹立する大岩石正面に来れり。岩の上に小さきほこらあるは此下にて死する人多きが為なりといふ。如何になるらんと心をなやます内に舟は逆巻く奔流を押しきつて稍々河幅濶くなれば一群の人河原に立ちてがや/\と騒ぐさまなり。船頭舟を寄せて何ぞと問へばきのふも上の瀬にて何其の舟覆りあへなく死したるが死骸今に知れず。若し川下に心あたりありたらば告げ知らせてよ。何がしに逢ひなば此話言づて給へなど云ふに舟に乗りたるもの皆顔を青くして身ぶるひしけり。再び纜を解けば舟は自ら流れに従ふて止まる所を知らず。猶折々は河の真中に岩の現はれて白波打ち寄するなど恐ろしげなるに船頭は横ふりむきて知らぬ顔すれば舟は心得顔にやす/\とそをよけてぞ流れける。やう/\に心落ち居て見渡せば一方は絶壁天を支へて古松いろ/\に青み渡り木陰岩間には咲き残れるつつじの色どりたるけしきまたなく面白し。
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下り舟岩に松ありつゝじあり
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 或は千仭の山峰雲間に突出して翠鬟鏡影に映じ或は一道の飛流銀漢より瀉ぎて白竜樹間に躍る。川一曲景一変舟の動くを覚えず。犬山城の下を過ぐれば両岸遠く離れて白沙涯なく帆々相追ふて廻灘を下るを見るのみ。舟を鉄橋の下にとどめそこより木曾停車場に至り茶店に午餐を喫す。鞋を解き足を洗ひ楼上に臥し晴間をも待たで早乙女の早苗取る手わざなど見やる折柄はした女あわただしく来りて汽車はや来れりいそぎ下り給へと云ふ。いふがまゝに下り立ちて草鞋などつけんとするにいかでさるひまのあるべき早く/\と叫びながら下婢は我荷物草鞋杖笠など両手にかゝへてさきに走る。我は裾を※[#「塞」の「土」のかわりに「衣」、第3水準1−91−84]《から》げあへず停車場まで駈けつけしは宛然として一幅の鳥羽絵、此旅竟に膝栗毛の極意を以て終れり。

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信濃なる木曾の旅路を人問はゞたゞ白雲のたつとこたへよ
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底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
親本:「子規全集第10巻」改造社
   1929(昭和4)年7月
※巻末に「明治24年6月記」の記載あり。
※底本に散見される旧字は、あらためませんでした。
※「象岩は其の鼻長く…」は、1字下げにはあらためませんでした。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2003年5月27日作成
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