左の如き次第に候。いはでもの事ながら、主観的の歌は縦令《たとい》感情を述べたる者なりとも、客観的の歌に比して智力を多く交へたるは不可争《あらそうべからざる》の事に候。そは客観的の歌は受身の官能に依ること多けれど、主観的の歌はいくばくか抽象して現すの労あるがために候。実朝の獣《けだもの》の歌の如き既に全体において主観的なるからに「すらだにも」の語さほど理窟ぽく聞えねど、全体客観的なる歌にただ一字の「も」の字ある時は極めて理窟ぽく殺風景に聞え申候。「も」の意善く響けば響くほど、益※[#二の字点、1−2−22]理窟くさく相成候。これは畢竟《ひっきょう》前後不調和なるがためにや候べき。余の蛇蝎視する「も」の字は客観的歌中に挿《はさ》まれたる「意味の強き「も」の字」の事に有之候。しかし前にも言ふ如く「梅も桜も」といふやうに、二物以上相対物が文字上に現はれたる場合は理窟|臭《くさ》からず聞え候。
ついでに申添《もうしそえ》候。俳句にては「人もなし」といふ語を「人なし」と同じく用うれど「人もあり」といふ語を用うれば「も」の字理窟臭く相成候。これも和歌より来れりと思《おぼ》しく、和歌にて「人もなし」
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