して、例の理窟とは「智」の一部分に相当申候。しからば理窟とは「智」の如何なる部分かといふに画然とその限界を示す能《あた》はざれども、要するに智の最も複雑したる部分が程度の高き理窟にて、それが簡単になればなるほど、程度の低き理窟となる訳に候。今まで用ゐたる理窟といふ語は最《もっとも》簡単の智をば除きて言ひしつもりなれど、貴書の意は智と理窟とを同一に見|做《な》されたるかと覚え候。論理的に厳粛に議論せんとする場合には後説の方あるいはよろしかるべく、さうすれば理窟の内でも低度の理窟は文学的としてこれを許し、高度の理窟は非文学的としてこれを排斥する訳に相成申候。この低度の理窟即ち最簡単の智とは記憶比較の類の如き者にして、如何なる純粋の文学的感情といへども、多少の記憶力比較力を交へざる時は文学として成り立つ者には無之候。もし理窟の語を広義の方に用うれば、実朝の歌の如きこれを理窟と言ひ得べく候へど、しかし余の標準に従ふて判ずれば、これは許すべき理窟の部に属し申候。
かく申さば一方にて「すらだにも」の如きを許し、他の方にて「も」の一字を蛇蝎《だかつ》視するは如何《いかん》との不審起り可申候。それは左の如き次第に候。いはでもの事ながら、主観的の歌は縦令《たとい》感情を述べたる者なりとも、客観的の歌に比して智力を多く交へたるは不可争《あらそうべからざる》の事に候。そは客観的の歌は受身の官能に依ること多けれど、主観的の歌はいくばくか抽象して現すの労あるがために候。実朝の獣《けだもの》の歌の如き既に全体において主観的なるからに「すらだにも」の語さほど理窟ぽく聞えねど、全体客観的なる歌にただ一字の「も」の字ある時は極めて理窟ぽく殺風景に聞え申候。「も」の意善く響けば響くほど、益※[#二の字点、1−2−22]理窟くさく相成候。これは畢竟《ひっきょう》前後不調和なるがためにや候べき。余の蛇蝎視する「も」の字は客観的歌中に挿《はさ》まれたる「意味の強き「も」の字」の事に有之候。しかし前にも言ふ如く「梅も桜も」といふやうに、二物以上相対物が文字上に現はれたる場合は理窟|臭《くさ》からず聞え候。
ついでに申添《もうしそえ》候。俳句にては「人もなし」といふ語を「人なし」と同じく用うれど「人もあり」といふ語を用うれば「も」の字理窟臭く相成候。これも和歌より来れりと思《おぼ》しく、和歌にて「人もなし」
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