ろに大きな客船の灯を見た。で、二隻の船は、例に依ってモウルス信号灯を掲げて会話を始めようとしたのだがゲルフ号の船橋で信号をしている三等運転士ブランチャアドは、何うしても相手の信号を読み取り得なかった。向うのモウルス・ランプの灯が非常に薄いのである。で、ブランチャアドはこの事を航海日誌にも記さなかったのだが、ナタアル港へ着いてからワラタ号事件のことをきき、思い出してこの事実を報告したのだけれど、これも何うやら、他の船だったらしいと言われている。第一、時間が合わないのである。若しこれがワラタ号だったとすれば、同日午前六時にクラン・マッキンタイア号を追い越してから、その日の夜九時半までに、ワラタは、たった七哩しか前進していない勘定になる。ところがワラタ号は時速平均十三ノットの、当時としては快速船なのだ。尤も、何か機関部の故障で、のろのろ航行していたのかも知れないと考え得られるけれど、それなら、この同じコウスを後から来る例のクラン・マッキンタイア号に追い抜かれなければならない。尠くとも、再び同船の視野に這入っている筈である。
4
客船トテナム S.S Tottenham の二等運転士が、八月十一日に、イースト・ランドンとバッシイ河口との間に二、三の屍体が浮かんでいるのを見たと言った。赤いドレッシング・ガウンに包まれた七、八歳の少女の溺死体が、浪のあいだに漂っていたというのだ。この話しは詳細を極めたもので、少女は深紅の頭巾をかぶり、黒い靴下を穿いて、両膝が露出していたという。この「赤いガウンの少女」は、その後もあちこちの海に現れて、多くの船員の眼に止まっている。年齢は見る人に依って十歳とも十二歳とも言われたが、何時も膝がむき出しで、黒い靴下をはいて波の間に間に浮かんでいる。ジイン・オリファント号という船の機関長も、この少女の屍体を見たと断言しているし、今いったトテナム号の一支那人火夫も、「Red girl in water」と証言するようにいった。そこでトテナム号の船長カックス氏は、わざわざ船を引っ返して、少女の浮かんでいたという海面を捜してみたが、その時は何も見えなかったと言う。飜車魚《サン・フィッシュ》でも見誤まったのだろうということになって、その二等運転士と支那人の火夫は、うんと叱られたが、二人は、確かに「赤いガウンの少女」だったと主張して止まなかった。ジイン・オリファント号や其の他の船で此の少女の屍体を見たというのは、ずっと後のことで、何うも怪談のような、掴まえどころのない話しに終っている。S.S Insizwa という船の船長も、八月半ばの晴れた日の海面に、矢張りバッシイ河口に近く、この「赤いガウンの少女」を認めたとある。そんなら何故ボウトを下ろして収容しなかったのか、そこは何とも言っていない。船の名や人名など尤もらしく色いろ出ているものの、恐らくこれは、よく斯うした怪奇事件に附きものの、根も葉もない噂に過ぎなかったのだろう。
ワラタ号の行方捜査に当っては、英本国から派遣された三双の軍艦の他に、濠洲政府は Seven 号を出して一箇月半、約二千七百哩を巡航させたし、B・A・Lは特にセエビン号―― The Sabine ――を傭船《チャアタア》して、九月十一日にケエプ・タウンを出帆して八十八日間、実に一万四千哩以上の海面を捜索せしめている。これが最後の捜査だったが、このセエビン号は、ちょっと興味のある理論を立てて捜索に従事した。と言うのは、この十年前、一八九九年に、ワイカト号 Waikato という船が、丁度ワラタ号が失踪した通りで遭難し、航路を外れて長く行方不明だったことがある。このワイカト号は一と月程後に、聖《セント》ポウル孤島の近くに漂流しているところを発見救助されたが、セエビンはここに着眼して此処らに特殊の潮の流れがあるに相違ないと観、記録にあるワイカト号の漂流の跡を忠実に辿って行ったのだが、軈て果してセント・ポウル島には着いたものの、矢張り、ワラタ号に関する手がかりは杳《よう》として挙がらなかった。
前にも言ったことだが、斯うなると、色んな連中が物識り顔に、勝手な事をいって現れる。船体の上部が重過ぎて、大体航海に適しない船だったことの、そう言えば、やれドックでも一遍引っ繰り返ったことの、いや、アドレイドでは浅瀬へ乗り上げたの、ジェリイみたいに船体に締まりが無く、処女航海でも甲板がばらばらに緩んで、おまけに救命艇は飾り物だったし、第一、あの船は、静かな海でも滅茶苦茶に揺れたものだ――などという類である。もっと不届きなのは、何時の時代、何処の国にも、|人さわがせ屋《センセイション・モンガア》というものはあるもので、濠洲と南亜の海岸|彼地此地《あちこち》で、空壜に這入った手紙や、遺書のようなものが六つも、浜に流れ着いたと言って届け出られた。まさに沈まんとするワラタ号から、誰かが其のメッセイジを書いて、壜に封じて海中へ投げ込んだものに相違ないと言うのだ。これが、六つの場所から六本提出された。生死の境に嫌に落ち着いて、死の哲学といったようなことを長ながと書いてあるのもあれば、女学生の詩みたいに変にセンチ一方のもある。そうかと思うと、如何にも倉皇の際に認めたらしく、字など狼狽《あわ》てていて殆んど判読出来ないながらも、沈没に到る経路を、可成り専門的に要領よく書いてあったり、中には、
「二十八日 午前二時三十七分! これぞ余に約束せられたる死の時間なりしとは! いま、船室にありて之を認め居る余の足は、既に海水に洗われ、膝を没せんとす。船内灯火|尽《ことごと》く消えて、僅かに星明りにてペンを走らすのみ。余が妻は嬰児を抱きて、石像の如く余が傍らに立てり。相顧みて千万無量の微笑、最早や凡べては畢《おわ》んぬ。海中に投じらるるも離れじと、妻は今己が帯革もて、余と児と自らを縛しつつあり。おお神よ、今し余らは御許に急ぐ――」
などというのがあって――これは原文を載せると余程面白いのだが、ちょっと長いから省く――驚いたことには、これにはちゃんと船客名簿に載っている人の署名までしてある。かと思うと、家族に宛てた細ごまとした書置き風のもあったが、当局が調査してみると、呆れたことには、この六つが六つとも立派ないんちきだった。好奇な悪戯者が、自分で書いて尤もらしく壜へ入れて持込んだり、或いはそっと海へ流し、人に拾わせて騒ぎを起そうとしたのだった。
要するにワラタ号のことは、あの、二十七日の朝六時に、クラン・マッキンタイア号が前方の水平線下に黒煙を見送って以来、何も判らない。が、二百の人名と夥しい財物を積んでいる一万六千八百噸の船である。解らないがわからないでは済まない。会社の体面もあるし、何とか解釈をつけなくては、遺族へ顔向けも出来ないのだ。そこで、倫敦で船舶局の海事査問が開かれることになって、ワラタ号に対する一般の興味は、また、嫌が上にも掻き立てられた。海事裁判と言っても、生存者も証拠も何ひとつないのだし、それに会社支店の関係者、証人としての他船の船員などは、みな遠く濠洲、南亜から呼ばれて来るので、開廷は延び延びになり、事件後一年半を経た一九一〇年十二月十六日、倫敦のカックストン会館でひらかれた。査問委員長は治安判事J・ディッケンスンで、この海事裁判は二箇月続く。何時、何処で、如何にして、何故ワラタ号は沈んだか――若し沈んだものとすれば――と、この問題を解決しようというのが査問の目的だが、結局色いろと想像を持出して、それをまた多勢で反駁し合うだけのことで、どこまで行っても限《き》りがない。貨物の積み込み方が拙くて、片方へ寄ったのだろうという説も出たが、これは、ダアバンで積荷を請負ったマアシアルという人が出て、ワラタ号の船艙の見取図に就いて説明し、その疑いは氷解した。円材甲板《スパア・デック》に六百十四噸の石炭を積む能力があって、そのために安定を失ったのではないか、との話しもあったが、調べてみると、当時ダアバン港で二百五十噸の石炭しか取っていないことが判り、これも根拠のない事になった。海事工廠の造艦学泰斗ウイリアム・ホワイト卿、ロバアト・ステイル氏なども出廷して、参考人として意見を徴されている。殊にステイル氏は、ワラタ号の設計図を研究した後、暴風雨や浪ぐらいで覆伏するようなことは絶対にあり得ないと断言した。余程重大な、致命的な事故が起ったに相違ないというのである。とうとう、「神の御業」などという言葉まで出て来て、つまり一同は匙を投げて終った。B・A・L会社の支配人ランド氏は、最初からこの「神の御旨」を主張していたものだった。前に言った、濠洲からダアバンまでワラタ号で来て、危険を感じて下船したという人―― Mr. Claud Sawyer という弁護士だったが、その他、バアクレイカアル造船所技師ジェイムス・シャンク、姉妹船ジイロング号機関長メエスン、一等運転士オウエン、処女航海に乗ったエブスウオウスという新聞記者、ブラッグというシドニイの大学教授、これらの人々が喚問されて、ワラタに関する素人観を述ぶる。処女航海だけで下りたハアバアトというボウイなども現れたが、勿論何ら神秘を解く手懸りにはならない。一九一一年二月二十三日に此の査問会は閉じている。神の御業である以上、人間の知識で判定の下しようがないのに不思議はない。
底本:「世界怪奇実話2[#「2」はローマ数字、1−13−22]」桃源社
1969(昭和44)年11月10日発行
入力:A子
校正:小林繁雄
2006年9月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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