。ジイン・オリファント号や其の他の船で此の少女の屍体を見たというのは、ずっと後のことで、何うも怪談のような、掴まえどころのない話しに終っている。S.S Insizwa という船の船長も、八月半ばの晴れた日の海面に、矢張りバッシイ河口に近く、この「赤いガウンの少女」を認めたとある。そんなら何故ボウトを下ろして収容しなかったのか、そこは何とも言っていない。船の名や人名など尤もらしく色いろ出ているものの、恐らくこれは、よく斯うした怪奇事件に附きものの、根も葉もない噂に過ぎなかったのだろう。
 ワラタ号の行方捜査に当っては、英本国から派遣された三双の軍艦の他に、濠洲政府は Seven 号を出して一箇月半、約二千七百哩を巡航させたし、B・A・Lは特にセエビン号―― The Sabine ――を傭船《チャアタア》して、九月十一日にケエプ・タウンを出帆して八十八日間、実に一万四千哩以上の海面を捜索せしめている。これが最後の捜査だったが、このセエビン号は、ちょっと興味のある理論を立てて捜索に従事した。と言うのは、この十年前、一八九九年に、ワイカト号 Waikato という船が、丁度ワラタ号が失踪した通りで遭難し、航路を外れて長く行方不明だったことがある。このワイカト号は一と月程後に、聖《セント》ポウル孤島の近くに漂流しているところを発見救助されたが、セエビンはここに着眼して此処らに特殊の潮の流れがあるに相違ないと観、記録にあるワイカト号の漂流の跡を忠実に辿って行ったのだが、軈て果してセント・ポウル島には着いたものの、矢張り、ワラタ号に関する手がかりは杳《よう》として挙がらなかった。
 前にも言ったことだが、斯うなると、色んな連中が物識り顔に、勝手な事をいって現れる。船体の上部が重過ぎて、大体航海に適しない船だったことの、そう言えば、やれドックでも一遍引っ繰り返ったことの、いや、アドレイドでは浅瀬へ乗り上げたの、ジェリイみたいに船体に締まりが無く、処女航海でも甲板がばらばらに緩んで、おまけに救命艇は飾り物だったし、第一、あの船は、静かな海でも滅茶苦茶に揺れたものだ――などという類である。もっと不届きなのは、何時の時代、何処の国にも、|人さわがせ屋《センセイション・モンガア》というものはあるもので、濠洲と南亜の海岸|彼地此地《あちこち》で、空壜に這入った手紙や、遺書のようなものが六つも
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