が刑務所の石廊を近づいてきた。こういう場合、死刑囚を急激に愕《おどろ》かせないために、覚悟を教えて、わざと遠くから跫音《あしおと》を立てて来るのだ。マタ・アリは、夜会にでも出席するように美装を凝《こ》らして人々を驚倒させた。
 にこにこして刑場に引き出されて行く。

 数多い「恋人」の一人でもっとも熱烈な彼女の讃美者ピエル・ドュ・モルテサックが、ひそかにマタ・アリに吹き込んだのだという。
「軍規の手前、銃殺しなければならないことになっているのだから、法を曲げるわけにはゆかない。で、形式的に処刑するのです。つくり狂言です。銃殺に使用する弾は空弾だから、音がするだけで、なんともない。あとから屍《し》骸ということにして国境外へ運び出す手筈《てはず》になっている。」
 一時慰めようという慈悲心からか、それとも意地の悪い意味からか、それは観方《みかた》一つだが、とにかくこういうことをささやかれて、マタ・アリはそれを信じきっていた。だから、刑場に出るものとは思われない華やかな態度で、ヴァンサンヌの城壁の前に立つ。一隊の竜騎兵《ドラグウン》が銃を擬して待っていた。芝居とばかり思い込んでいるマタ・アリである。元気よく手を振って射撃隊に挨拶《あいさつ》したりした。

 発砲された。空弾でないことを知った時のマタ・アリの驚愕《きょうがく》、立ち会った人々はその悲鳴にみな耳を抑えたというから、よほど諦めの悪い死を死んだものだろう。無理もない気もする。騙《だま》し討ちのような遣《や》り方だった。
 死刑場には、ピエル・ドュ・モルテサックはじめ彼女の騎士連が多勢詰めていた。検|屍《し》官が蜂の巣のようになって土に横たわっているマタ・アリの死体を靴の先で軽く蹴りながら、
「どなたか引取人がありますか。」
 だれも出なかった。

 何国《どこ》も同じことで、このマタ・アリ事件が政争の具に使われている。問題になったのは、マタ・アリに恋文を書いているM――Yの署名にあたる某閣僚である。M――Yはだれか? さあ、騒ぎになった。シャンパアニュの野の総攻撃でめちゃくちゃに遣《や》られたニヴィイユ元帥ら、軍閥がまず承知しない。内務大臣ルイ・マルヴィ―― Louis Malvy ――を槍玉にあげた。
「M――Yといえばマルヴィにきまっている。手蹟《しゅせき》も似ているし人物もあたる。マルヴィは踊り子スパイをつうじて祖国をドイツへ渡したのだ。売国奴だ。」
 この叫びがひろまって、マルヴィの公判となる。四人の前首相が弁護に立ったが、戦時で軍人が威張っている。ニヴィイユ一派の軍閥が勝って、マルヴィ氏は失脚、七年間の追放に処される。やがて平和回復、人心秩序の樹立に飢えている時、大統領エリオットに特赦《とくしゃ》されて、マルヴィ氏はふたたび入閣したが、議会の反対党は彼を忘れなかった。
「マタ・アリ! マタ・アリ! マタ・アリ!」
 の弥次《やじ》に完全に封じ込まれて、何度も壇上に立往生した末、七年間の恥と苦痛に健康を害《そこ》ねている。卒倒してしまった。才腕ある士だったが、まもなく政界を退《ひ》いている。

 二年後に、ある婦人記者が、マルヴィ氏を追った軍閥の一人、大戦当時の陸軍大臣メサミイ元帥―― Messimy から驚くべき告白を取った。マタ・アリの恋人M――Yはこの General Messimy だった。



底本:「浴槽の花嫁−世界怪奇実話1[#「1」はローマ数字、1−13−21]」教養文庫、社会思想社
   1975(昭和50)年6月15日初版第1刷発行
   1997(平成9)年9月30日初版第8刷発行
入力:大野晋
校正:小林繁雄
2006年9月12日作成
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