なほど、二人の話題に上《のぼ》らないでいる。
 そのかわり他の恋人群の間に機密を漁《あさ》った。ことに連合軍の将校に好意の濫売《らんばい》をやったから、報告材料には困らない。別れたあたしの良人《おっと》というのは、イギリスの士官でしたのよ――かつて一緒にインドへいったマクリイのことだ。嘘ではない。あどけない顔でこんなことを言うから、マタ・アリが、時に女性にしては珍しい軍事上の興味と知識を示してもだれも不思議に思わなかった。無邪気な笑顔で、急所にふれた質問をたくみに包んだ。休暇で戦線から帰って来ている軍人たちである。めいめい自分の、そして自分だけの情婦と信じ込んでいる女が、寝台の痴態《ちたい》において、優しく話しかける。時として、可愛いほど無智な質問があったり、そうかと思うと、どうした拍子《ひょうし》に、ぎょっとするような際《きわ》どいことを訊《き》く。こっちは下地に、豪《えら》そうに戦争の話をしたくてたまらない心理もある。みなべらべらしゃべってしまった。それがすべて翌朝暗号電報となって特設の経路からベルリンへ飛ぶ。当時のマタ・アリの活動は、まことに眼覚《めざ》ましかった。たださえパリーだ。戦時である。性道徳は弛緩《しかん》しきっている。マタ・アリは、スパイそのものよりも、いろんな男を征服するのが面白いのだ。今度はそれが仕事で、資金はふんだんに支給される。時と所と人と、三|拍子《びょうし》そろって、あの歴史的なスパイ戦線の尖端《せんたん》に踊りぬいていたのだった。

 マルガリイの料理店である。赤十字慈善舞踏会の夜だった。明るい灯の下、珍味の食卓を中に、一|対《つい》の紳士淑女はフォウクと談笑を弄《もてあそ》んでいる。新型のデコルテから、こんがり焦《こ》げたような、肉欲的な腕と肩を露《あら》わしたマタ・アリは、媚《こ》びのほかなにも知らない、上気《じょうき》した眼をあげて、相手の、連合マリン・サアヴィスのノルマン・レイ氏を見てにっこりした。駝鳥《だちょう》の羽扇《おおぎ》が、倦《けだ》るそうに[#「倦《けだ》るそうに」は底本では「倦《けだる》るそうに」]ゆらりと揺れて、香料の風を送る。どうあってもここんところは、プラス・ヴァンドウムかルウ・ドュ・ラ・ペエの空気でないと、感じがでない。グラン・ブルヴァルだと、もうコティのにおいがする。
「ねえ、このごろなんにも下さらないわねえ。」下品なようだが、そんなような意味のことを言った。
「あたしスペインのマンテラが欲しいんですけれど、いまパリー中のどこを捜《さが》してもないんですって。つまんないわ。」
「なに、スペインのマンテラですか、あれが欲しいんですか。そうですか。」
 ノルマン・レイ氏は、すぐ顔を輝かして乗り出してきた。今夜どういうものか機嫌が悪くて、些《いささ》か持てあましていたマタ・アリが、急に天候回復して少女のようにねだりだしたのだから、彼は、カイゼルが降参《こうさん》したように嬉しかったのだろう。四角くなって引き請《う》けた。
「よろしい。大至急スペインから取り寄せることにしよう。バルセロナの特置員《エイジェント》へ電報を打って、つぎの便船で送らせますから、わけはない。」
「あら、素敵! すると、いつ来て?」
 ノルマン・レイ氏は、商船《マリン》サアヴィスの理事なのだ。連合国の汽船の動きを、脳髄の皺《しわ》に畳《たた》み込んでいる人である。
「待ちたまえ。」日を繰《く》って考えている。「今日の火曜日と――木曜日の真夜中に、コロナ号がバルセロナを抜錨《ばつびょう》する。聖《サン》ナザアルへ入港《はい》るのが来週の水曜日と見て、そうですね、金曜日にはまちがいなく届くでしょう。」
 異様に眼を光らせて聞いていたマタ・アリは、レイ氏の言葉が終った時は、もうマンテラにたいする関心をうしなったように横を向いて、小さな欠伸《あくび》を噛《か》み殺していた。ノウさんはたのもしいわくらい言ったかもしれない。
 つぎの日、マタ・アリは、長距離電話でブレスト町を呼び出していた。兄と称する人物が、線のむこう端に声を持った。親類の一人が、木曜日の深夜に発病して、肺炎になった。つぎの週の水曜日に入院するから、それまでさっそく看病に行ってもらいたい――マタ・アリは電話でそう言っている。ただちにブレストから、オランダのロッテルダムへ電報が飛んだ。電文は、ブレストの一カフェが鰯《いわし》の罐詰《かんづめ》を註文している文章だった。何ダース、何月何日の何時に着くように、どうやって送ること――そして、ロッテルダムからは、暗号電報が海底深く消え去る。
 三日後の金曜日、真夜中である。
 ビスケイ湾、あそこはいつも荒れる。ことに、その晩は猛烈な暴風《しけ》で、海全体が石鹸の泡のように沸《わ》き騒いでいた。連合軍の食糧
前へ 次へ
全17ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング