わねえ。」下品なようだが、そんなような意味のことを言った。
「あたしスペインのマンテラが欲しいんですけれど、いまパリー中のどこを捜《さが》してもないんですって。つまんないわ。」
「なに、スペインのマンテラですか、あれが欲しいんですか。そうですか。」
 ノルマン・レイ氏は、すぐ顔を輝かして乗り出してきた。今夜どういうものか機嫌が悪くて、些《いささ》か持てあましていたマタ・アリが、急に天候回復して少女のようにねだりだしたのだから、彼は、カイゼルが降参《こうさん》したように嬉しかったのだろう。四角くなって引き請《う》けた。
「よろしい。大至急スペインから取り寄せることにしよう。バルセロナの特置員《エイジェント》へ電報を打って、つぎの便船で送らせますから、わけはない。」
「あら、素敵! すると、いつ来て?」
 ノルマン・レイ氏は、商船《マリン》サアヴィスの理事なのだ。連合国の汽船の動きを、脳髄の皺《しわ》に畳《たた》み込んでいる人である。
「待ちたまえ。」日を繰《く》って考えている。「今日の火曜日と――木曜日の真夜中に、コロナ号がバルセロナを抜錨《ばつびょう》する。聖《サン》ナザアルへ入港《はい》るのが来週の水曜日と見て、そうですね、金曜日にはまちがいなく届くでしょう。」
 異様に眼を光らせて聞いていたマタ・アリは、レイ氏の言葉が終った時は、もうマンテラにたいする関心をうしなったように横を向いて、小さな欠伸《あくび》を噛《か》み殺していた。ノウさんはたのもしいわくらい言ったかもしれない。
 つぎの日、マタ・アリは、長距離電話でブレスト町を呼び出していた。兄と称する人物が、線のむこう端に声を持った。親類の一人が、木曜日の深夜に発病して、肺炎になった。つぎの週の水曜日に入院するから、それまでさっそく看病に行ってもらいたい――マタ・アリは電話でそう言っている。ただちにブレストから、オランダのロッテルダムへ電報が飛んだ。電文は、ブレストの一カフェが鰯《いわし》の罐詰《かんづめ》を註文している文章だった。何ダース、何月何日の何時に着くように、どうやって送ること――そして、ロッテルダムからは、暗号電報が海底深く消え去る。
 三日後の金曜日、真夜中である。
 ビスケイ湾、あそこはいつも荒れる。ことに、その晩は猛烈な暴風《しけ》で、海全体が石鹸の泡のように沸《わ》き騒いでいた。連合軍の食糧
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