とに陸海軍、民間|運漕《うんそう》関係の有力者を逃がすな。H21は、その有《も》てるすべてを彼らに与えて、彼らから聴き出した知識を逐一《ちくいち》もっとも敏速に通牒《つうちょう》せよ――そして、一つの注意が付加された。
「忘れてならない例外がある。その某閣僚にたいしてだけは、いかなる場合、いかなる形においても、H21の方から能動的に、なにか探り出そうとするような言動を示してはならぬ。これだけは厳守すること。」
というのだ。命令はわかったが、この最後の理由が腑《ふ》に落ちない。一番の大物に探りを入れて悪いなら、それでは、いったいなんのために生命を賭《と》して近づくのか、その動機が呑《の》み込めなかった。が、すでに数年密偵部にいるのだから、下手《へた》に反問することの危険を熟知している。すべて命令は鵜呑《うの》みにすべきで、勝手に咀嚼《そしゃく》したり吐き出したりすべきものではない。マタ・アリは、黙ってうなずいた。
オランダの市民権をもっている。難なく国境を通過してパリーへはいった。初めて来るパリーではない。以前この裸体のダンサアをパトロナイズした政界、実業界の大立物《おおだてもの》がうんといる。みんな他人に戦争させてのらくら[#「のらくら」に傍点]しているブルジョア連中である。またあのマタ・アリが来るというんで爪立《つまだ》ちして待ちかまえていた。ニュウリイに素晴らしいアパアトメントがとってある。戦時でも、パリーの灯は華やかだ。すぐに女王マタ・アリを中心に、色彩的な「饒舌《じょうぜつ》と淫欲《いんよく》と流行《ファッション》の宮廷《コウト》」ができあがって、われこそ一番のお気に入りだと競争を始める。この美貌の好色一代女があにはからんや、H21などという非詩的《プロザイク》な番号をもっていようとは、お釈迦《しゃか》様でもごぞんじなかった。この宮廷の第一人者は、とっくに最大の獲物として狙ってきた仏内閣の閣僚某、メエトルをあげてマタ・アリのパトロンになった。が、外部へは綺麗《きれい》に隠して、閣議の帰りやなんかに、お忍びの自動車を仕立ててニュウリイのアパアトへしきりに通っている。例の厳命がある。いっこう訳がわからないが、とにかくマタ・アリはそれを守って、なにも訊《き》かなかった。大臣はもとより、なにも言わない。寄ると触ると、だれもかれも話しあっている戦争のことを、不自然
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