魔《じゃま》しないように足止めしておくことができれば、まず成功だが、その上で、もし機会に恵まれたら、英対アフガニスタンの関係にも、ちょっと糸を引いてみるがいい、というのだ。腕に縒《よ》りをかけてかかる。
紹介されると、深い茶色の眼を、その背の高いイギリス人の上に微笑《ほほえ》ませて、
「あら、ヘンダスン少佐でいらっしゃいますの? あたくし、古いお友達のような気がいたしますわ。どこかでお目にかかったことがございますわねえ少佐。」
甘い抑揚《よくよう》をつけて言った。嫣然《えんぜん》一笑、東洋でいう傾国《けいこく》の笑いというやつ。そいつをやりながら、触れなば折れんず風情《ふぜい》、招待的、挑発的な姿態を見せる。ところが、少佐の声は、興《きょう》もなさそうに乾いたものだった。
「そうでしたか。どこでお会いしましたかしら。」
「いやですわ少佐。あたくし思い出しましてよ。あのほらインドのボンベイ。」
「いやそんなことはないでしょう――僕も思い出しました。」
「あら、どこ、どこ、どこでございますの?」
「ベルリン市ドロテイン街一八八番邸。」
「あらっ!」虚を衝《つ》かれたマタ・アリは、たちまち動揺を隠して、立てなおってきた。「そうかもしれませんわ。あたくし、あんまり方々へまいりますので、時々人様や場所のことで、とんでもない思い違いをして笑われますのよ。はあ、ヨーロッパ中を旅行いたしておりますの。東洋の心を舞踊で表現したいというのが、あたくしの芸術上の願望でございますわ。」
大きなことを言う。エリク・ヘンダスンはくすっ[#「くすっ」に傍点]と笑って、「その東洋の心は」真正面から斬り込んできた。「ヨーロッパ第一の暴れ者に買われたんだそうですな。」
完全にあだ[#「あだ」に傍点]となっているH21を残して、ヘンダスンはほかの人々へ笑顔を向けていく。マタ・アリは口唇を噛《か》んで口惜《くや》しがったが、どうにもならない。そのとおり報告した。
ダンサア・スパイ、踊る女密偵、などといろんな浪漫的《ロマンティック》な名で呼ばれているマタ・アリは、ダンサアには相違なかったが、もちろん芸術家ではなかった。裸体で勝手な恰好《かっこう》をするだけの、与太《よた》なものだった。
彼女の出現は、かえってエリク・ヘンダスンに事態の逼迫《ひっぱく》していることを報《しら》せるに役立っただけだ。
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