。つぎの駅で降りろと言うんだ。」
「なんて失礼なやつでしょう。名前をおっしゃい。申告してやるから。」
 というようなことから始まって、車掌は職権をかさに呶鳴《どな》りたてる。女はここぞとばかりヒステリカルに泣き出す。大変な騒ぎだから、メリコフも黙っていられない。車掌の言い草もかなり横暴なので、スラヴ族は多血質だ。むかっ[#「むかっ」に傍点]として、頼まれもしないのに、女の助太刀《すけだち》に飛び出して行く。
「車掌君、君は婦人客にたいして物の言いかたを知らない。不親切きわまる。切符の手違いとわかったら、できないまでも、いちおう車室の融通《ゆうずう》を考えてみるのが至当じゃないか――まあま、貴女もそう泣くことはないでしょう。」
 女を庇《かば》って、車掌を白眼《にら》みつけている。
 ベルリン・ドロテイン街に住むドイツ政府直属の女国事探偵フォン・リンデン伯爵夫人は、四日前に外務当局から一通の命令を手交された。
 四日後の今日、露独連絡の国際列車によってロシア外務省からパリー駐在のロシア大使の許《もと》へ重要秘密書類を運ぶ一人の外交郵便夫が通過する。この外交郵便夫というのは、郵送できない外交上の重要物件を身に付けてもっていく。まあ、早飛脚《はやびきゃく》みたいなもので、どこの国でも、必要におうじてやっている。暗号は頻繁《ひんぱん》に切り換えることになっているが、その新しい鍵語《キイ》などはとても書留やなんかでは送れないから、そこでこの外交郵便夫というのが選ばれて、身をもって逓送《ていそう》の任に当る。常備のわけではない。たいがい、書記生どころの若い外交官を出すことになっている。

 ところで、女密偵フォン・リンデン伯爵夫人が受け取ったドイツ外務省の通牒《つうちょう》である。ロシアの一外交郵便夫が、ニコライ・ロマノフの宮廷からパリーの大使館へ宛《あ》てた密書を帯びてドイツを通過するとある。それにたいするスパイの役目は、不言不語の裡《うち》にわかっている。フォン・リンデン伯爵夫人は、ちゃんと心得ていた。
 その時、密偵部の首脳が、細かい区分けになっている書棚から一通抜き取って、黙って夫人に渡したという「|文字の肖像画《デスクリプション》」を見ると、
 ルオフ・メリコフ――三十二歳、白系韃靼人《はくけいだったんじん》。ギリシャ正教徒《せいきょうと》。前|近衛《このえ》中隊長。
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