楔《くさび》を打って廻った。一度で調子好く打込み得るのは為吉だけだった。感心し乍ら皆色々と彼の経験を尋ねた。歯切れのいい倫敦風《カクネイ》の英語で応答しながら彼は大得意だった。そして誰も彼の逃込んで来た理由を尋ねはしなかった。国籍不明の彼等にとってそんな事はてん[#「てん」に傍点]で問題でなかったのである。ただ一度|船長《キャプテン》に呼ばれて行った時、家庭の事情で伯父の家から逃げて来たと為吉は答えた。ヴィクトル・カレニナ号乗組二等水夫シン・サアキイ、こう地位と名前を頭の中で繰返して為吉は微笑を禁じ得なかった。
 通路《パセイジ》に面した右舷《ポウルド》の一室を料理人《クック》と仕官ボウイと為吉が占領することになった。下級員《クルウ》が仕事している間に、船尾の食堂《メス》へ彼等の食事を運んで遣るだけで、後片付けは見習《アップ》がすることになっていたので、為吉が彼等と顔を合わすのは昼間甲板《デッキ》で作業する時だけだった。従って機関部の人たちに遇うことは殆どなかった。石炭と灰と油に塗《まみ》れて船底《ダンビロ》に蠢《うごめ》いている彼らを、何かと言えば軽蔑する風習が何《ど》の船の甲板《デッキ》部員をも支配していた。機関部の油虫《カクロウチ》なんか|船乗り《セイラア》なぞという意気なものではないと為吉も子供の頃から思込んでいた。で、格別の注意を払わなかったが、同室のボウイの口から甲板《デッキ》部の下級員《クルウ》が十七人、機関《エンジン》部が二十一人で、船はこれから一直線に南下して木曜島で海鳥糞を積み、布哇《ハワイ》を廻って北米西海岸グレイス・ハアバアで角材を仕入れ、解氷を待ってアラスカのユウコン河をクロンダイクまで上る筈だということなどを聞出すのを忘れなかった。それまでが今度の遠洋航路の第一期で、それからは傭船《チャアタア》の都合で何処へ行くか判らないとのことだった。電報一つで世界中何処へでも行く不定期貨物船《トランプ・フレイタア》の一つであった。
 出入港には多少の感慨を持つのが、荒っぽいようで感傷的な遠航船員の常だった。それが妙なことには、今度の為吉の場合には安堵と悦びの他何もなかった。その安心が大きければ大きいだけ、彼は無意識の内に恐しい自己暗示にかかっていたのである。
 箱のような寝台《パアス》の中で毛布にくるまって眼を閉じた時、自分に掛かっている嫌疑を思って森為吉は始めて慄然《ぞっ》とした。隠しの中で坂本の小刀《ナイフ》を握ってみた。冷い触感が彼の神経を脅した。彼は何うする事も出来なかった。何時《いつ》からともなく自分自身が自分の犯行を確信するといったような変態的《へんたいてき》な心理に落ちて行った。こうした弱い瞬間に、根も葉もない夢みたいな告白をした許《ばか》りに、幾多の「手の白い」人間が法治の名に依って簡単にそうして事務的に葬り去られたことであろう。
 が、この場合為吉は自分の無罪――よし彼が無罪であったにしろ――を主張する意地も張りも持合わせていなかった。その証拠さえないように思われた。それよりも海へ出たことの喜びで一杯だった。それでも彼は再び事件の内容を熟考してみようと努めた。が、無駄だった。考えれば考える程、果して自分が坂本を殺したのか、殺さなかったのか其辺が頗《すこぶ》る曖昧になって来た。
 要するに、そんな事は何うでも宜《よ》かった。今は既《も》う日本の土地を離れ切った。そして坂本新太郎は死んだのである。其の犯人として日本警察に狩立てられている森為吉も既に存在しないのである。新生の坂本新太郎を名乗って自分は当分此の諾威《ノルウェー》船を降りまい、其の内に二つ三つ船を換える間に国籍も解らなくなるに違いない。末子《ばっし》で独身のボヘミアンの彼は日本という海図上の一列島に何らの執着をも感じ得なかった。十一|浬四分一《ノット・クオタア》の汽力《スチイム》で船は土佐沖に差掛っているらしかった。十八度位のがぶり[#「がぶり」に傍点]で硝子窓《ボウルト》に浪の飛沫《しぶき》が夜眼《よめ》にも白く砕けて見えた。低い機関の廻転が子守唄のように彼の耳に通った。為吉の坂本新太郎は暫らくしてすやすや[#「すやすや」に傍点]と鼾《いびき》を掻き始めた。
 何時間寝たか解らない。
 為吉が眼を覚ました時は、暴風《しけ》も凪ぎ、夜も明けかかって、船は港内に錨を下していた。唐津《からつ》港あたりに颱風を避難したのだろうと思い乍ら窓から覗いた彼の鼻先に、朝靄を衝いて聳《そび》えていたのは川崎造船の煙突であった。
「神戸だ! 暴風《あれ》で引返したんだ!」
 が、六千|噸《トン》もある船が晴雨計《バロメイタア》の針が逆立ちしようと出港地へ帰航するようなことのないのは海で育った彼が先刻承知の筈だった。
 一等運転士《チイフ・メイト》と水夫長《ボウシン》が這入《はい》って来た。
「サアキイ、お前は殺人犯《ひとごろし》だと言うじゃないか」水夫長《ボウシン》が呶鳴った。
「大きな声を出すな」
 と為吉は答えた。手は隠しの中に小刀《ナイフ》を探しつつ、がたがた[#「がたがた」に傍点]と震えていた。海への執着が彼を臆病にしていた。
「はっはっは――」と一運《チイフ》が笑い出した。「水上警察と傭船会社《エイジェント》からの無電《ワイヤレス》で船が呼戻されたのだぞ。警察へ護送される途中だったってえじゃないか、はっはっは」
 何が何だか解らなくなった為吉の頭には、絞首台を取巻いて指の傷と小刀《ナイフ》が渦を巻いた。そして一方には其処に展《ひら》けかけた自由な海の生活があった。
「今水上警察の小艇《ランチ》が橋を離れたから、もうおっつけ役人が来るだろう」
 真蒼になって為吉は寝台《パアス》の上に俯伏した。一運《チイフ》と水夫長《ボウシン》とが何か小声で話し合っていた。
「何うする?」と水夫長《ボウシン》の声がした。
「隠れるか」と一等運転士《チイフ・メイト》が言った。弾機《ばね》のように為吉は其の胸へ噛り付いた。声が出なかった。
「宜《よ》し、じゃ逃げるだけ逃げて見ろ。何とかなる」と一運《チイフ》は又哄笑した。
「機関部の奴に預けましょうか」と水夫長《ボウシン》が尋ねた。
「そうだ、ボストンを呼べ、ボストンを」
 水夫長《ボウシン》は毯のように飛び出して行って直ぐ前の機関室の汽※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]《セリンダア》の上から呶鳴った。
「ボストン! 真夜中《ミド・ナイト》ボストウン!」
 間もなく七尺に近い黒人が油布《ウエイス》を持った儘のそっ[#「のそっ」に傍点]と這入って来た。
「此奴を隠すんだ、早く連れて行け」
 一運《チイフ》は頤《あご》で為吉を指した。ボストンはちらっ[#「ちらっ」に傍点]と彼を見遣って黙って先に立った。為吉は一歩|室外《そと》へ踏み出そうとすると、
「一等運転士《チイフ・メイツ》、警察が来ました」とボウイが走込んで来た。右舷《スタボウド》の甲板に当って多勢の日本語の人声がして居た。ボストンの腕の下を駈抜けて為吉は機関室の鉄階段《タラップ》を転がり落ちた。この騒ぎで機関室にも釜前にも誰もいなかった。|水漉し《フィルタア》へ逃込もうとした彼は、油に滑って其儘ワイヤア氏|蒸発機《エヴァボレイタア》の蔭へ横ざまに倒れた。
「そこは不可《いけ》ねえ、直ぐ見付かる」と黒人が叫んだ。「停泊用釜《ドンキ・ボイラ》の上から水張りの隙間《スペイス》へ潜込むんだ。早く!」
 低い掘通《トンネル》から灰の一|吋《インチ》も溜まっている停泊用釜《ドンキ・ボイラ》へ這上って、両脚が一度に這入らない程の穴から為吉は水管の組合っている釜《ボイラ》の外側へ身を縮めた。火の気のない釜の外は氷室《ひむろ》のように冷えていた。掘通《トンネル》の扉《ドア》を締めて出て行くボストンの跫音が聞えた後は、固形化したような空気が四方から彼を包んで、水準下の不気味な静寂に耳を透ましていた為吉は、不自然な姿勢から来る苦痛をさえ感じなかった。が、考えても見なかった、何のためにこんな事をしているのか、それは自分でも解らなかったからである。
 こつ、こつ、こつ、じい――い。
 と、何処からともなく鉄板を引掻くような音が聞えて来た。おや、と為吉は思った。
 こつ、こつ、こつ、じい――い。
 音は釜《ボイラ》の中からするようでもあったし、釜前《ダンピロ》の通風器《ヴェンチレエタア》から洩れるようにも聞えた。
 こつ、こつ、こつ、じい――い、じい。
 はっ[#「はっ」に傍点]と彼は思い付いた。よく船員達が爪で卓《テーブル》などを叩いて合図する無線電信《ワイヤレス》、万国ABCの略符合《コウド》なのだ、そして確かに停泊用釜《ドンキ・ボイラア》の中から聞えて来るではないか!
 どやどやと靴音がしたかと思うと、
「御覧の通り誰も居りません、わっはっは」という一等運転士《チイフ・メイト》の声がして、続いて二言三言会話があった。一同が出て行った後、為吉は死んだようになって水管《ヴァルヴ》に頬を押付けた。
 こつ、こつ、じい――。
 前よりも一層明瞭に響いて来た。無意識に彼の頭はそれを翻読した。SOS! 難破船が救助を求める信号ではないか!
 為吉はぎょっとした。隠しから小刀《ナイフ》を取出して水管を叩いた。「ナニコトカ――」
 こつ、じい、こつ、こつ、こつ、じ――い。
「Shanghai――」と返信があった。
 上海《シャンハイ》? ナニコトカ[#「ナニコトカ」に傍点]と彼は又|水管《ヴァルヴ》を掻いた。
「Shanghaiされた」
 上海《シャンハイ》された! 通行人を暴力で船へ攫《さら》って来て出帆後、陸上との交通が完全に絶たれるのを待って、出帆後過激な労役に酷使することを「上海《シャンハイ》する」と言って、世界の不定期船《トランパア》に共通の公然の秘密だった。罪悪の暴露を恐れて上海《シャンハイ》した人間に再び陸《おか》を踏ませることは決してなかった。絶対に日光を見ない船底の生活、昼夜を分《わか》たない石炭庫の労働、食物其他の虐待から半年と命の続く者は稀だった。
 狂気《きちがい》のように為吉は釜《ボイラ》から降りて音のした釜戸《ドア》の前に立った。外部からは把手《ハンドル》一つで訳なく開けることが出来た。
 糞便と人体の悪臭がむっと鼻を打った。真暗な奥の薄敷《アンペラ》と麪包《パン》屑の間から、
「あ、為公じゃねえか」と声がした。
「眼を隠せ! 明りを見ちゃ不可《いけ》ねえぞ!」
 咄嗟《とっさ》の間に為吉は呶鳴った。固く眼を押えて半病人のように這出して来たのは殺された筈の坂本新太郎であった。
「手前生きて居たのか」
「うん。歯が痛んで血が出て仕様がねえから医者を起しに出たところを掴まえられて上海《シャンハイ》された。停船《ストップ》してるじゃねえか、何処だ此港《ここ》は? 大連か、浦塩《ウラジオ》か、何処だ」
「神戸だ」
「なに、神戸? 四、五日|機関《エンジン》が廻っていたと思ったが――」
「それがよ、此の俺が手前を殺《ば》らしたって騒ぎで、それで俺あ此船へぶらんてん[#「ぶらんてん」に傍点]したんだ。すると、いいか、陸から無電が飛んで来て船は召還よ。いってえ、あの梨を剥く時手前に借りた此の小刀《ナイフ》が好くねえ、おまけにあれで指を切ってるじゃねえか」
 その小刀を逆手に持って為吉は奥炭庫《クロス・バンカア》の前の鉄梯子《タラップ》に腰を掛けながら、白痴のようににたにた[#「にたにた」に傍点]と笑った。彼は明らかに海の呼声を聞いたのである。自分の無罪を立証し得る悦びよりも、只《ただ》死損いの坂本を助ける為めに折角乗った此の船――しかも仲々|仕事口《チャンス》のない此頃、望んでも又と得られない好地位を見捨てて――船を降りなければならないのが不満で仕様がなかった。第一、恨みこそあれ、此奴を助け出すなんてそんな義務が何処にある。この男は俺に殺されたことになっているんじゃないか。と彼は考えた。いや、刑事も言った通り確かに俺が殺したんだ。それに何だって今頃になっ
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