上海された男
牧逸馬

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夜半《よなか》に

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)大|卓《テーブル》の上に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
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          ※[#ローマ数字1、1−13−21]

 夜半《よなか》に一度、隣に寝ている男の呻声《うめきごえ》を聞いて為吉《ためきち》は寝苦しい儘、裏庭に降立《おりた》ったようだったが、昼間の疲労《つかれ》で間もなく床に帰ったらしかった。その男は前日無免許の歯医者に歯を抜いて貰った後が痛むと言って終日不機嫌だった。為吉が神戸中の海員周旋宿を渡り歩いた末、昨日《きのう》波止場に近いこの合宿所へ流れ込んで、相部屋でその男と始めて会った時も、男は黙りこくって、煩《うるさ》そうに為吉を見やった丈《だ》けだった。
 彼は近海《きんかい》商船の豊岡丸《とよおかまる》から下船した許《ばか》りの三等油差しだという話だった。遠航専門の甲板部の為吉とは話も合わないので、夜っぴて唸《うな》っていても、為吉は別に気に止めなかったのである。
 油臭い蒲団《ふとん》の中で、朝為吉が眼を覚ました時には、隣の夜具は空だった。彼は別に気に止めなかった。それよりも既《も》う永い間、陸《おか》にいる為吉には機関の震動とその太い低音とが此の上なく懐しかった。殊に朝の眼覚めには、それが一入《ひとしお》淋しく感じられた。
 濠洲航路の見習水夫でも、メリケン行の雑役でも好いから、今日こそは一つ乗組まなくては、と為吉は朝飯もそこそこに掲示場へ飛び出した。黒板には只一つ樺太《からふと》定期ブラゴエ丸の二等料理人の口が出ているだけで、その前の大|卓《テーブル》の上に車座に胡座《あぐら》を掻《か》いて、例《いつ》もの連中が朝から壷を伏せていた。
「きあ、張ったり、張ったり!」
 と鎮洋丸《ちんようまる》をごて[#「ごて」に傍点]って下《おろ》された沢口《さわぐち》が駒親《こまおや》らしかった。
「張って悪いは親父の頭――と」
「へん、張らなきゃ食えねえ提燈屋《ちょうちんや》――か」
 為吉は呆然《ぼんやり》と突っ立って、大きくなって行く場を見詰めていた。建福丸《けんぷくまる》が一人で集めていた。
「いい加減におしよ、此の人達は」
 と女将《おかみ》のおきん婆あが顔を出した。「今一人来てるんだよ、朝っばらから何だね。それから、為さん、鳥渡《ちょいと》顔を貸して――」土間を通って事務所になっている表の入口へ出る迄、おきん婆あは低声《こごえ》に囁《ささや》き続けた。
「素直にね、それが一番だよ。誰にだって出来心ってものはあるんだからさ、大したことはなかろうけれど、まあ、素直に、ね」
 指の傷を気にし乍《なが》ら、為吉は何故か仏頂面をしていた。何か解ったような、それでいて何も解らないような妙な気もちだった。事務室には明るい午前の陽が漲《みなぎ》って、暫《しば》らくは眼が痛いようだった。
「為ってのはお前か」
 と太い声がした。返事をする前に、為吉は瞬きし乍ら声の主を見上げた。洋服を着た四十代の男だった。
「お前は坂本新太郎《さかもとしんたろう》というのを知ってるだろう」
 彼は矢継早やに質問した。坂本新太郎というのは昨夜の相部屋の男の名だった。相手の態度から何か忌《いま》わしい事件を直感した為吉は黙った儘頷いた。
「太い奴だ!」と男は為吉の手首を掴んだ。驚いた顔が幾つも戸の隙間に並んでいた。
「僕は観音崎署《かんのんざきしょ》の者だ。一寸同行しろ」
 超自然的に為吉は冷静だった。周囲の者が立騒ぐのを却って客観視し乍ら、口許《くちもと》に薄笑いさえ浮べていた。それが彼を極悪人のように見せた。只かま[#「かま」に傍点]を掛けるつもりで荒っぽく出た刑事は、これで一層自信を強くしたようだった。
「さっさと来い」と彼は自分で興奮して為吉を戸口の方へ引擦ろうとした。
「行きますよ、行きさえしたら宜《い》いんでしょう。なあに直ぐ解るこった」
「早くしろ」
 と刑事は為吉を小突こうとした。其の手を払って為吉は叫んだ。
「何をしやがる! Damn You」
 刑事の右手が飛んで為吉の頬桁《ほおげた》を打った。
「抵抗すると承知せんぞ」
「まあ、まあ、旦那」と顔役の亜弗利加《アフリカ》丸が飛んで出た。「本人も柔順《おとな》しくお供すると言ってるんですから――が、一体|何《ど》うしたと言うんです」
「太い野郎だ」と刑事は息を切らしていた。
「君等は未《ま》だ知らんのか。昨夜坂本新太郎が殺害されたのだ」
 一同は愕然《あっ》と驚いた。最も駭《おどろ》いた――或いはそう見えた――のが為吉であった。
「それは真実《ほんとう》ですか、それは」
「白ばくれるな!」と刑事が呶鳴《どな》りつけた。
「本署へ引致する前に証拠物件を捜索せにゃならん。前へ出ろ!」
 すると「サカモト」と羅馬《ローマ》字の彫られたジャック小刀《ナイフ》が為吉の菜葉洋袴《なっぱズボン》の隠しから取出された。
「そいつは違う」と為吉は蒼くなって言った。
「黙れ!」刑事は指の傷へ眼を付けた。
「其の繃帯は何だ、血が染《にじ》んでるじゃないか。兎も角そこまで来い、言う事があるなら刑事部屋で申立てろ、来いっ」
 がやがや騒いでいる合宿の船員達を尻眼に掛けて、引立てられる儘に為吉は戸外《そと》へ出た。
 小春日和の麗《うらら》かさに陽炎《かげろう》が燃えていた。海岸通りには荷役の権三《ごんぞう》たちが群を作《な》して喧《やかま》しく呶鳴り合って居た。外国の水夫が三々五々歩き廻っていた。自分でも不思議な程落付き払って為吉はぴたりと刑事に寄り添われて歩いて行った。もう何うなっても好いという気だった。擦《す》れ違う通行人の顔が莫迦莫迦しく眺められた。自分のことが何だか他人の身上のように考えられた。只これで当分海へ出られないと思うとそれが残念でならなかった。
 払暁《ふつぎょう》海岸通りを見廻っていた観音崎署の一刑事は、おきん婆あの船員宿の前の歩道に夥《おびただ》しい血溜りを発見して驚いた。血痕は点滴《てんてき》となって断続し乍ら南へ半丁程続いて、其処《そこ》には土に印された靴跡《くつあと》や、辺りに散乱している衣服の片《きれ》などから歴然と格闘の模様が想像された。そこは油庫《タンク》船の着いていた跡であって、岩壁から直《す》ぐ深い、油ぎった水が洋々と沖へ続いて居た。その石垣の上に坂本新太郎の海員手帳と一枚の質札が落ちていたのである。
 時を移さず所轄署の活動となった。動機の点が判然しないので第一の嫌疑者として自然的に其筋が眼星を付けたのが、相部屋同志の森為吉であったことは此の場合仕方があるまい。が、網を曳いてみても、潜水夫を入れても坂本の屍体は勿論|所有物《もちもの》一つ揚がらなかった。で、満潮を待って、水上署と協力して一斉に底洗いをする手筈になっていた。
 小刀《ナイフ》のことや指の傷を考えると、さすがに為吉は自分の姿を絞首台上に見るような気がして何うも足が進まなかった。彼は何よりも海を見捨て得なかったのである。道の突当りに古びた石造の警察の建物が彼を待っていた。異国的な匂いを有《も》つ潮風が為吉の鼻を掠《かす》めた。左手に青い水が拡がって、その向うに雲の峯が立っていた。
 海が彼を呼んでいた。
 九歳の時に直江津《なおえつ》の港を出た限《き》り、二十有余年の間、各国の汽船で世界中を乗廻して来た為吉にとって、海は故郷であり、慈母の懐ろであった。
 錨を巻く音がした。岩壁の一外国船に黒地に白を四角に抜いた出帆旗が翻《ひるがえ》っていた。一眼でそれが諾威《ノルウェー》PN会社の貨物船《フレイタア》であることを為吉は見て取った。出帆に遅れまいとする船員が三人、買物の包みを抱えて為吉の前を急足《いそぎあし》に通った。濃い咽管《パイプ》煙草の薫《かお》りが彼の嗅覚を突いた。と、遠い外国の港街が幻のように為吉の眼に浮んで消えた。彼は決心した。
「靴擦れで足が痛え――」ひょい[#「ひょい」に傍点]と踞《しゃが》み乍ら力任せに為吉は刑事の脚を浚《さら》った。
 夢中だった。呶声《どせい》を背後《うしろ》に聞いたと思った。通行人を二人程投げ飛ばしたようだった。そして縄梯子《ジャコップ》に足を掛けようとしている外国船員のところへ一散に彼は駈付けた。
「乗せて呉れ!」と彼は叫んだ。船員達は呆気《あっけ》に取られて路を開いた。
「乗せて行って呉れ、悪い奴に追っかけられてる。何処《どこ》へでも行く、何でもする。諾威《ノルウェー》船なら二つ三つ歩いてるんだ」船乗仲間にだけ適用する英語を為吉が流暢に話し得るのがこの場合何よりの助けだった。
「ぶらんてん[#「ぶらんてん」に傍点]か、手前は」
 船側《サイド》の上から一等運転士《チイフ・メイト》が訊いた。
「ノウ、甲板の二等です」と為吉は答えた。
 暫く考えた後、
「宜《よ》し、乗せて行く」
 猿《ましら》のように為吉は高い側《サイド》を攀《よ》じ登って、料理場《ギャレイ》の前の倉庫口《ハッチウェイ》から側炭庫《サイドバンカア》へ逃げ込んだ。
「殺人犯だ! 解らんか、此の毛唐奴《けとうめ》、彼奴《あいつ》は人殺しを遣《や》ったんだ!」
 遅れ馳《ば》せに駈けつけた刑事は息せき切って斯う言った。
「解らんか、ひ[#「ひ」に傍点]、と[#「と」に傍点]、ご[#「ご」に傍点]、ろ[#「ろ」に傍点]、し[#「し」に傍点]だ! 早くあの男を返せ。あいつを出せ」
 船員達は船縁《ふなべり》に集って笑い出した。
「し、し、し、し、し」と一人が真似した。
 梯子《ジャコップ》が巻上げられた。
「|皆帰船したか《オウル・アブロウド》?」と舵子長《マスタア》が船橋《ブリッジ》から呶鳴った。「|皆居ます《オウルズ・イン》」と水夫長《ボウシン》が答えた。
 がらん、がらん、と機関室への信号が鳴った。船尾に泡を立てて航進機《スクルウ》が舞い始めた。
 ちりん[#「ちりん」に傍点]、「|部署へ着け《スカタア・ラウンド》!」、水夫達は縦横に走り廻って綱《ロウプ》を投げたり立棒《ピット》を外したりした。二等運転士《セケン・メイト》が船尾へ立った。
「オウライ」
 鎖を巻く起重機《ウインチ》の音と共に諾威《ノルウェー》船ヴィクトル・カレニナ号は岩壁を離れた。
「サヨナラ!」
 船員の一人が桟橋で地団駄踏んでいる刑事に言った。甲板上の笑声は折柄青空を衝《つ》いて鳴った出港笛《ホイッスル》のために掻き消された。

          ※[#ローマ数字2、1−13−22]

 船長《キャプテン》の前で一等運転士の作った出鱈目《でたらめ》の契約書に署名《サイン》する時、何ということなしに為吉はシンタロ・サカモトと書いて終《しま》った。
 士官食堂《サルウン》の掃除と下級員《クルウ》の食事の世話とが為吉のサカモトの毎日の仕事と決められた。鉄板に炭油《タアル》を塗ったり、短艇甲板《ボウト・デッキ》で庫布《カヴア》を修繕したり甲板積みに針金《ライン》を掛けたりするのにも手伝わなければならなかった。
 神戸の街が蜃気楼のように霞み出すと、為吉は始めて解放されたように慣れた仕事に手が付いて来た。舷側に私語《ささや》く海の言葉を聞き乍ら、美しい日輪の下で久し振りにボルトの頭へスパナアを合わせたりするのが此の上なく嬉しかった。自分に対して途方もない嫌疑を持っている日本警察の範囲から脱出しつつあるという安心よりも、自分の属する場所に自分を発見した歓喜の方が遙かに大きかった。
 こんな風に自分自身に無責任な態度をとることを、永い間の放浪生活が彼に教えていた。
 船員達も彼をサアキイと親しみ呼んで重宝がった。
 午後から空模様が変って来たので、為吉は水夫一同と一緒に七個《ななつ》ある大倉口《メイン・ハッチ》の押さえ棒へ
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