おどろ》いた――或いはそう見えた――のが為吉であった。
「それは真実《ほんとう》ですか、それは」
「白ばくれるな!」と刑事が呶鳴《どな》りつけた。
「本署へ引致する前に証拠物件を捜索せにゃならん。前へ出ろ!」
すると「サカモト」と羅馬《ローマ》字の彫られたジャック小刀《ナイフ》が為吉の菜葉洋袴《なっぱズボン》の隠しから取出された。
「そいつは違う」と為吉は蒼くなって言った。
「黙れ!」刑事は指の傷へ眼を付けた。
「其の繃帯は何だ、血が染《にじ》んでるじゃないか。兎も角そこまで来い、言う事があるなら刑事部屋で申立てろ、来いっ」
がやがや騒いでいる合宿の船員達を尻眼に掛けて、引立てられる儘に為吉は戸外《そと》へ出た。
小春日和の麗《うらら》かさに陽炎《かげろう》が燃えていた。海岸通りには荷役の権三《ごんぞう》たちが群を作《な》して喧《やかま》しく呶鳴り合って居た。外国の水夫が三々五々歩き廻っていた。自分でも不思議な程落付き払って為吉はぴたりと刑事に寄り添われて歩いて行った。もう何うなっても好いという気だった。擦《す》れ違う通行人の顔が莫迦莫迦しく眺められた。自分のことが何だか他人の身上のように考えられた。只これで当分海へ出られないと思うとそれが残念でならなかった。
払暁《ふつぎょう》海岸通りを見廻っていた観音崎署の一刑事は、おきん婆あの船員宿の前の歩道に夥《おびただ》しい血溜りを発見して驚いた。血痕は点滴《てんてき》となって断続し乍ら南へ半丁程続いて、其処《そこ》には土に印された靴跡《くつあと》や、辺りに散乱している衣服の片《きれ》などから歴然と格闘の模様が想像された。そこは油庫《タンク》船の着いていた跡であって、岩壁から直《す》ぐ深い、油ぎった水が洋々と沖へ続いて居た。その石垣の上に坂本新太郎の海員手帳と一枚の質札が落ちていたのである。
時を移さず所轄署の活動となった。動機の点が判然しないので第一の嫌疑者として自然的に其筋が眼星を付けたのが、相部屋同志の森為吉であったことは此の場合仕方があるまい。が、網を曳いてみても、潜水夫を入れても坂本の屍体は勿論|所有物《もちもの》一つ揚がらなかった。で、満潮を待って、水上署と協力して一斉に底洗いをする手筈になっていた。
小刀《ナイフ》のことや指の傷を考えると、さすがに為吉は自分の姿を絞首台上に見るような気がして何うも足が進まなかった。彼は何よりも海を見捨て得なかったのである。道の突当りに古びた石造の警察の建物が彼を待っていた。異国的な匂いを有《も》つ潮風が為吉の鼻を掠《かす》めた。左手に青い水が拡がって、その向うに雲の峯が立っていた。
海が彼を呼んでいた。
九歳の時に直江津《なおえつ》の港を出た限《き》り、二十有余年の間、各国の汽船で世界中を乗廻して来た為吉にとって、海は故郷であり、慈母の懐ろであった。
錨を巻く音がした。岩壁の一外国船に黒地に白を四角に抜いた出帆旗が翻《ひるがえ》っていた。一眼でそれが諾威《ノルウェー》PN会社の貨物船《フレイタア》であることを為吉は見て取った。出帆に遅れまいとする船員が三人、買物の包みを抱えて為吉の前を急足《いそぎあし》に通った。濃い咽管《パイプ》煙草の薫《かお》りが彼の嗅覚を突いた。と、遠い外国の港街が幻のように為吉の眼に浮んで消えた。彼は決心した。
「靴擦れで足が痛え――」ひょい[#「ひょい」に傍点]と踞《しゃが》み乍ら力任せに為吉は刑事の脚を浚《さら》った。
夢中だった。呶声《どせい》を背後《うしろ》に聞いたと思った。通行人を二人程投げ飛ばしたようだった。そして縄梯子《ジャコップ》に足を掛けようとしている外国船員のところへ一散に彼は駈付けた。
「乗せて呉れ!」と彼は叫んだ。船員達は呆気《あっけ》に取られて路を開いた。
「乗せて行って呉れ、悪い奴に追っかけられてる。何処《どこ》へでも行く、何でもする。諾威《ノルウェー》船なら二つ三つ歩いてるんだ」船乗仲間にだけ適用する英語を為吉が流暢に話し得るのがこの場合何よりの助けだった。
「ぶらんてん[#「ぶらんてん」に傍点]か、手前は」
船側《サイド》の上から一等運転士《チイフ・メイト》が訊いた。
「ノウ、甲板の二等です」と為吉は答えた。
暫く考えた後、
「宜《よ》し、乗せて行く」
猿《ましら》のように為吉は高い側《サイド》を攀《よ》じ登って、料理場《ギャレイ》の前の倉庫口《ハッチウェイ》から側炭庫《サイドバンカア》へ逃げ込んだ。
「殺人犯だ! 解らんか、此の毛唐奴《けとうめ》、彼奴《あいつ》は人殺しを遣《や》ったんだ!」
遅れ馳《ば》せに駈けつけた刑事は息せき切って斯う言った。
「解らんか、ひ[#「ひ」に傍点]、と[#「と」に傍点]、ご[#「ご」に傍点]、ろ[#「ろ」に傍点]、し[
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