森為吉は始めて慄然《ぞっ》とした。隠しの中で坂本の小刀《ナイフ》を握ってみた。冷い触感が彼の神経を脅した。彼は何うする事も出来なかった。何時《いつ》からともなく自分自身が自分の犯行を確信するといったような変態的《へんたいてき》な心理に落ちて行った。こうした弱い瞬間に、根も葉もない夢みたいな告白をした許《ばか》りに、幾多の「手の白い」人間が法治の名に依って簡単にそうして事務的に葬り去られたことであろう。
 が、この場合為吉は自分の無罪――よし彼が無罪であったにしろ――を主張する意地も張りも持合わせていなかった。その証拠さえないように思われた。それよりも海へ出たことの喜びで一杯だった。それでも彼は再び事件の内容を熟考してみようと努めた。が、無駄だった。考えれば考える程、果して自分が坂本を殺したのか、殺さなかったのか其辺が頗《すこぶ》る曖昧になって来た。
 要するに、そんな事は何うでも宜《よ》かった。今は既《も》う日本の土地を離れ切った。そして坂本新太郎は死んだのである。其の犯人として日本警察に狩立てられている森為吉も既に存在しないのである。新生の坂本新太郎を名乗って自分は当分此の諾威《ノルウェー》船を降りまい、其の内に二つ三つ船を換える間に国籍も解らなくなるに違いない。末子《ばっし》で独身のボヘミアンの彼は日本という海図上の一列島に何らの執着をも感じ得なかった。十一|浬四分一《ノット・クオタア》の汽力《スチイム》で船は土佐沖に差掛っているらしかった。十八度位のがぶり[#「がぶり」に傍点]で硝子窓《ボウルト》に浪の飛沫《しぶき》が夜眼《よめ》にも白く砕けて見えた。低い機関の廻転が子守唄のように彼の耳に通った。為吉の坂本新太郎は暫らくしてすやすや[#「すやすや」に傍点]と鼾《いびき》を掻き始めた。
 何時間寝たか解らない。
 為吉が眼を覚ました時は、暴風《しけ》も凪ぎ、夜も明けかかって、船は港内に錨を下していた。唐津《からつ》港あたりに颱風を避難したのだろうと思い乍ら窓から覗いた彼の鼻先に、朝靄を衝いて聳《そび》えていたのは川崎造船の煙突であった。
「神戸だ! 暴風《あれ》で引返したんだ!」
 が、六千|噸《トン》もある船が晴雨計《バロメイタア》の針が逆立ちしようと出港地へ帰航するようなことのないのは海で育った彼が先刻承知の筈だった。
 一等運転士《チイフ・メイト》と水夫長《ボウシン》が這入《はい》って来た。
「サアキイ、お前は殺人犯《ひとごろし》だと言うじゃないか」水夫長《ボウシン》が呶鳴った。
「大きな声を出すな」
 と為吉は答えた。手は隠しの中に小刀《ナイフ》を探しつつ、がたがた[#「がたがた」に傍点]と震えていた。海への執着が彼を臆病にしていた。
「はっはっは――」と一運《チイフ》が笑い出した。「水上警察と傭船会社《エイジェント》からの無電《ワイヤレス》で船が呼戻されたのだぞ。警察へ護送される途中だったってえじゃないか、はっはっは」
 何が何だか解らなくなった為吉の頭には、絞首台を取巻いて指の傷と小刀《ナイフ》が渦を巻いた。そして一方には其処に展《ひら》けかけた自由な海の生活があった。
「今水上警察の小艇《ランチ》が橋を離れたから、もうおっつけ役人が来るだろう」
 真蒼になって為吉は寝台《パアス》の上に俯伏した。一運《チイフ》と水夫長《ボウシン》とが何か小声で話し合っていた。
「何うする?」と水夫長《ボウシン》の声がした。
「隠れるか」と一等運転士《チイフ・メイト》が言った。弾機《ばね》のように為吉は其の胸へ噛り付いた。声が出なかった。
「宜《よ》し、じゃ逃げるだけ逃げて見ろ。何とかなる」と一運《チイフ》は又哄笑した。
「機関部の奴に預けましょうか」と水夫長《ボウシン》が尋ねた。
「そうだ、ボストンを呼べ、ボストンを」
 水夫長《ボウシン》は毯のように飛び出して行って直ぐ前の機関室の汽※[#「竹かんむり/甬」、第4水準2−83−48]《セリンダア》の上から呶鳴った。
「ボストン! 真夜中《ミド・ナイト》ボストウン!」
 間もなく七尺に近い黒人が油布《ウエイス》を持った儘のそっ[#「のそっ」に傍点]と這入って来た。
「此奴を隠すんだ、早く連れて行け」
 一運《チイフ》は頤《あご》で為吉を指した。ボストンはちらっ[#「ちらっ」に傍点]と彼を見遣って黙って先に立った。為吉は一歩|室外《そと》へ踏み出そうとすると、
「一等運転士《チイフ・メイツ》、警察が来ました」とボウイが走込んで来た。右舷《スタボウド》の甲板に当って多勢の日本語の人声がして居た。ボストンの腕の下を駈抜けて為吉は機関室の鉄階段《タラップ》を転がり落ちた。この騒ぎで機関室にも釜前にも誰もいなかった。|水漉し《フィルタア》へ逃込もうとした彼は、油に滑って其儘ワイヤア氏|蒸
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