れは後から発表されたのだが、ハンべリイ街二九番事件の時である。被害者アニイ・チャプマンが格闘の際犯人の着衣から※[#「手へん+宛」、第3水準1−84−80、43−14]《も》ぎ取ったのだろう、屍《し》体の真下、背中の個所に、一個のボタンが落ちていた。裏に、H&Qという小さな商標が押字してあった。このボタンの研究は、警視庁の依頼を受けてロンドン商工会議所が引き請《う》けた。そして、日ならずして、H&Qのボタンは、米国シカゴのヘンドリックス・エンド・クエンティン会社の製品であることが判明した。このゆいいつのそして表面漠として雲を掴《つか》むような手がかり――ほとんど手がかりとも呼びがたい――を頼りに、もっとも他にもなにかあったのかもしれないが、即日アンドルウス警部が警視庁を飛び出してそのままサザンプトンからニューヨーク行きの船に投じている。その筋の努力がいかに涙ぐましいものであったかは、この一事でも知れよう。が、このボタンの調査もなんらの結果を齎《もたら》さなかったとみえて、アンドルウス氏は、いつ帰ったともなく、まもなく空手でロンドンに帰ってきていた。
数年後、マナガ市の精神病院で客死《かくし》した、かつてそうとう知名の外科医だった英国人の一狂人が、その死の床において、リッパア事件とニカラガ事件の真犯人であると告白したという話が伝わってきて、忘れかけていた世間を、もう一度「ジャック」の名で騒がせたことがあるが、もちろん完全なでたらめにすぎない。すくなくとも当局は一笑に付した。第一、「狂人の告白」というのからして、なんと、痛快なナンセンスではないか。
底本:「浴槽の花嫁−世界怪奇実話1」教養文庫、社会思想社
1975(昭和50)年6月15日初版第1刷発行
1997(平成9)年9月30日初版第8刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
※底本の表記を誤植と判断するにあたっては、「一人三人全集5[#「5」はローマ数字] 世界怪奇実話 浴槽の花嫁」1969(昭和44)年11月5日初版発行を参照しました。
入力:大野晋
校正:原田頌子
2002年2月13日公開
2002年5月15日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
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