やフォルスタア氏をはじめ錚々《そうそう》たる腕|利《き》きがそろっていて、空前絶後といってもいい一つの黄金時代だったのである。しからば犯人ジャックが、それほど遁走《とんそう》潜行に妙を得た超人間であったかというに、事実は正反対で、ただかれは、一個偉大なずぶ[#「ずぶ」に傍点]の素人《しろうと》にすぎなかった。そして、その素人素人《しろうとしろうと》した粗削《あらけず》りな遣《や》り口こそ、かえってその筋の苦労人の手足を封じ込めた最大の真因《しんいん》だった観がある。が、実際は、こうなるとすべてが運であり、一に機会の問題である。この場合は、その運と機会が、不合理にもしじゅう反対側に微笑《ほほえ》み続けたのであった。
 こうしてバアナア街の被害者エリザベス・ストライドは、不慮《ふりょ》の死の二十分前に、無意識に犯人の顔を、パッカアという一人の人間に見せたという重要な役目を果したのだが、そのためにこのパッカアがあとでさんざん猛烈な非難を一身に浴びなければならないことが起こった。
 が、これは、パッカアにも攻撃されて仕方のない理由と責任がある。
 十月二日というから、バアナア街事件のあった九月三十日土曜日の夜からわずかに二日しか経過していない。月曜日のことだ。
 正午近くだった。パッカアは、ふたたび先夜の男が自分の果物店の前を通行しつつあるのを認めたのだ。
 白昼である。自分の証言が口火となって、その男こそ「斬り裂くジャック」に相違ないといっそう騒然と大緊張をきたしている最中だ。ことに、あれほど彼の網膜に灼《や》きついた映像に見誤りがあるはずはない。なによりもその「異様に長い黒の外套《がいとう》」が眼印《めじる》しとなって、パッカアは一眼でそれ[#「それ」に傍点]と判別した。今度は、正午にまもないころだったと自分でも言っている。バアナア街は細民《さいみん》区のイースト・エンドでもちょっとした商店街の形態を備えていて、古風な狭い往来に織るような人通りが溢《あふ》れている。ふたたび言う。白昼である。パッカアもなにも怖がることはないはずだ。なぜ彼は、男を見かけると同時に店を走り出て、大声をあげて近隣の者や通行人の助力を求め、とにかくその男を包囲しておいて警官の出張を待たなかったか――つぎは、この点に関して、パッカアが係官の前で陳述している彼自身の言葉だ。
「私は、客のない時は、切符売場式の店の窓口からボンヤリ[#「ボンヤリ」に傍点]戸外の雑沓《ざっとう》を眺めているのが常です。すると、早目に昼飯《ランチ》に出た近所の売子などが、笑いさざめいて通っていましたから、かれこれ十二時でしたろう。ふと見ると、あの男が、この間の晩と同じ服装で店のすぐ前の舗道に差しかかっている。彼奴《きゃつ》が『斬裂人《リッパア》のジャック』であることは各新聞も指摘し、近所の者もみなそう言いあい、私も確信していた際ですから、私は、通行の群集に混って歩いているその男を見かけると同時に、あ! あいつだ! と思いました。先方も私を覚えていたらしく、ちら[#「ちら」に傍点]とこちらを見ましたが気のせいか、それは何事か脅すような、じつに気味の悪い眼つきでした。正直に申しますと、私ははっ[#「はっ」に傍点]と不意を打たれて、意気地がないようですが、あまりびっくりしてどうにも足が動きませんでした。その上、ちょうどその時私のほかに店に人がいなかったものですから、即座に店を空けて飛び出すわけにもゆかず、その間にも奴は足早に通り過ぎて行きます。気が気でありません。で、私は、すぐ後から店の前を通りかかった靴磨きの子供を低声に呼び込んで、何も言わず、ただ静かにその男の後を尾《つ》けてどこの家へはいるかそっ[#「そっ」に傍点]と見届けるようにと耳打ちしました。が、その男が振り返ったのです。そして私が、自分の方を見ながら熱心に靴磨きに囁《ささや》いているのを見ると、突然|彼奴《きゃつ》は鉄砲玉のように駈け出して、ちょうどそこへ疾走して来た電車へ飛び乗ってしまいました。私は夢が覚めたように初めて気がついて、店から転がり出て大声に騒ぎ立てましたが、その時はもう電車は男を乗せたまま遠く町のむこうに消え去っていたのです。まことに残念でなんとも申しわけありませんがこれが事実であります。その男が一昨日の晩私が葡萄《ぶどう》を売った客と同一人であることは断じてまちがいありませぬ。」
 ようするにパッカアは、白昼、平明な日光と普通の街上群集の中で見たがゆえに、いっそうこの人鬼にたいして、瞬間いいようのない絶大な恐怖を抱いたのである。このことは自分でも「正直のところあまりびっくりしてどうにも足が動かなかった[#「なかった」は底本では「なった」と誤植]」と告白しているとおり、この一種形容できない白昼の驚怖感が、刹那《
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