、後日|逐《ちく》一申し立てている。
年齢三十歳前後、身長約五フィート七インチ、肩幅広く、身件全体が四角い感じを与える。浅黒い皮膚。綺麗《きれい》に鬚《ひげ》を剃って、敏捷《びんしょう》な顔つきをしていた。長い黒の外套《がいとう》に、焦茶色《こげちゃいろ》フェルト帽、きびきびした早口だった。
そのきびきび[#「きびきび」に傍点]した横柄《おうへい》な早口で、エリザベスの同伴者は、窓のむこうから言った。
「おい。そこの葡萄《ぶどう》を半ポンドくれ。三ペンスだな。」
物価の安かったころである。
3
半ポンドの葡萄《ぶどう》を紙袋に入れて、パッカアが差し出すと、のっぽのリッツ――エリザベス・ストライド――が、受け取った。夫婦か恋人のように、男がエリザベスの腕を取って、二人は付近の社会党|倶楽部《くらぶ》の方角へ歩き去った。この界隈《かいわい》で有名な、そして自分もよく知っている売春婦が、こうしてどこからか見慣れぬ男を引っ張ってきて、これからそこらの露地《ろじ》の暗い隅へでも隠れようとしているのだから、パッカアがいくぶん下品な興味をもってこの二人の背後を見送ったであろうことは想像し得る。この辺の下層売春婦の客は、多く隣接工業地帯からの若い労働者か、テムズの諸|船渠《ドック》に停泊中の船員なのだが、パッカアはその男を、そういう部類の筋肉労働者のいずれとも釈《と》らなかった。カマアシャル街《ロウド》あたりの店員か下級事務員どころと踏んだ。彼らがパッカア果物店前のバアナア街をまっすぐに進んで、社会党|倶楽部《くらぶ》――正式には、同党イースト・エンド支部会館の看板をあげていた――の在る一構内に消えてから、二十分たつかたたないうちに、その会館の窓下の中庭で、このエリザベスが惨|屍《し》体となって発見されたのである。酸鼻《さんび》惨虐をきわめた屍体のかたわらに、パッカアが葡萄《ぶどう》を入れて売った紙袋と、葡萄の種と皮とが散乱していた。被害者は葡萄《ぶどう》を食べながら犯人と談笑して、その商取引を終るやいなや、ただちに「斬り裂くジャック」の狂刃の下に、名の示すごとく、両脚の間を腹部まで「斬り裂」かれたものであることが容易に推測される。この屍体も、他のすべてのリッパア事件の被害者と同じく、股間に加えられた加害状態とその暴虐は、文明人の思及《しきゅう》だも許されない怖愕《テロリズム》の極点に達して、犯人が手を使用して引き出したらしい腹部の内部諸器官が、鮮血の溜《たま》りと一緒に極彩色《ごくさいしき》の画面のように、両|大腿《だいたい》部に挟《はさ》まれて屍体の膝のあたりまで真赤に流出していた。そしてそれらを玩弄《がんろう》した痕跡歴然たるものがあり、のみならず、子宮だけがたくみに摘出《てきしゅつ》して持ち去ってあったことなど、これらはすべて前回に記述したとおりである。現場は同じバアナア街で、四四番のパッカア果実店からは、石を投げて届く距離にある、人鬼ジャックがじつに野獣的に、非常識にまで豪胆《ごうたん》であり、いかに無人フ境を往《ゆ》くような猛暴を逞《たくまし》うしたかは、この、犯行の場所を選ぶ場合の彼の病的な無関心だけでも、遺憾《いかん》なく窺《うかが》われよう。ただこの九月三十日の夜、パッカア方へ葡萄《ぶどう》を買いに立ち寄ったエリザベス・ストライドの同伴者こそは、警視庁をはじめ全ロンドンが、爪を抜きとった指で石を掘りさげても発見したいと、日夜|焦慮《しょうりょ》していた殺人鬼その人であったことは、なんら疑念の余地がないのである。
本事件は、今日にいたるまで警察当局と犯罪学者とに幾多の研究資料を呈与《ていよ》しているいわゆる「迷宮入り」である。したがって普通の探偵物もしくは犯罪実話のごとく、「いかにして犯人が逮捕されたか」にその興味の重心を置くものではなく、逆に、「どうして逮捕されなかったか」がその物語の中点なのだ。
前回にもたびたび詳言《しょうげん》したように、比較的小範囲の地域に、古来チイム・ワークにかけては無比の称ある|ロンドン警視庁《スカットランド・ヤアド》が、その刑事探偵の一騎当千《いっきとうせん》をすぐって、密林のように張りわたした警戒網である。それを随時随所に突破して、この幻怪な犯罪は当局を愚弄《ぐろう》するように連続的に行なわれるのだ。しかも犯人は、不敵にも堂々と宣戦|布告《ふこく》的な態度を持続している。おまけに、続出する被害者の身分まで厳正に一定され、いままた、こうして犯人の顔を実見《じっけん》した者さえ出てきたにかかわらず、ついに捕縛《ほばく》の日を見ることなくして終ったのだ。警視庁の手配が万善《ばんぜん》を期したものであったことはいうまでもない。事実、当時のロンドン警視庁は、かの大ブラウン
前へ
次へ
全15ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング