でなんらかの点で有名になった事件のみを摘出《てきしゅつ》しても、いま言った九月八日ハンべリイ街のアニイ・チャプマン殺し、バックス・ロウ街事件、同月三十日にはバアナア街でエリザベス・ストライドを、その四十五分後にミルト広場《スクエア》でキャザリン・エドウスとを一夜に二人殺し、十一月九日にはドルセット街でケリイ一名ワッツを殺している。このほか同じような売春婦殺しがその間に挟《はさ》まっているのだが、子宮の紛失、陰部を斬り取られていること、臓物《ぞうもつ》を弄《もてあそ》んで変態的に耽《ふけ》った証跡《しょうせき》など、屍《し》体の惨状と犯行の手段、残虐性はすべて同一である。
 名にし負う|ロンドン警視庁《スコットランド・ヤアド》は何をしていたか?
 正直にいえば、まさに手も足も出なかった。そうとう手がかりがあるようで、じつは、なにひとつ信拠《しんきょ》するにたる手がかりがないのだ。バアナア街の場合など、運送屋の下|請《う》けのようなことをしている男が小馬車を自宅の裏庭へ乗り入れて、そこに、血の池の中に仆《たお》れているエリザベス・ストライド――縛名《あだな》を「のっぽのリック」といって背が高かった。あとから出てくるが、この女の死の直前に無意識に一つの重大な役割を演じている――の屍骸を発見したのだが、その時は犯行のすぐあとほんの数秒後のことで、屍体はまだ生血を噴《ふ》いて、その血の流域がみるみるひろがりつつあったくらいだから、発見者の到着がいま一足早かったら彼はまちがいなく「解剖」の現場と犯人を目撃したことだろう。事実、ジャックが、近づく馬車の音にあわてて、屍《し》体を離れ、最寄《もよ》りの暗い壁へでも身を貼《は》りつけたとたんに、発見者の馬車がはいってきたものに相違ない。異臭《いしゅう》に驚いて急止した馬は、もう一歩で屍骸を踏みつけるところまで接近していた。この発見の光景を、犯人はかたわらで見ていたのである。そして、騒ぎになろうとするところで、闇黒《あんこく》にまぎれて静かに立ち去ったのだろうが、現場はバアナア街社会党支部の窓の直下で、兇行《きょうこう》時刻には、支部には三、四十人の党員が集っていたにもかかわらず、だれ一人物音を聞いた者はなかった。これは無理もない。たださえ喧々囂々《けんけんごうごう》たる政党員のなかでも、ことに議論好きで声の大きい社会党員が三、四十人も
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