くわえ込む便宜《べんぎ》のために、おもての戸は夜じゅう鍵をかけずにおくことになっていたのだ。つまり、中庭までだれでも自由に出入りできるわけである。
 九月八日の深夜だった。
 秋の初めで、ロンドンはよく通り雨が降る。その晩も夜中にばらばらと落ちてきたので、三階に住んでいる一人のおかみさんが、乾《ほ》し忘れたままになっている洗濯物のことを思い出した。洗濯物は、イースト・エンドではどこでもそうやるのだが、窓から窓へ綱を張って、それへ乾《ほ》すのだ。で、おかみさんは、雨の音を聞くとあわてて飛び起きて、中庭に面した窓を開けた。小雨が降っていたくらいだから真闇《まっくら》な晩だったが、庭へはいろうとする石段の上に、二つの人影がなにか争っているのを認めた。それはふざけ半分のものらしかった。女が低声で、笑いながら「いいえ、いけません。いやです」と言うのが聞えた。相手は男で、異様に長い外套《がいとう》を着ているのが見えた。が、前にも言うとおり、この辺は風儀《ふうぎ》の悪いところで、真夜中にこんな光景を見るのは珍らしいことではなかった。また、だれかこの家に部屋を借りている女が男を引っ張ってきて、帰る帰さないで、入口で言い争っているのだろう。こう思って、おかみさんはべつに気に留めなかった。しばらくして争いも止まった様子である。翌早朝、デェヴィスという男が、中庭の隅《すみ》の共同石炭置場へ石炭を取りに行って、あの、二眼《ふため》と見られない惨|屍《し》体を発見したのだった。
 被害者はアニイ・チャプマン。二九番の止宿《ししゅく》人ではなかったが、やはりハンべリイ街の売春婦で、ひと思いに咽頸《いんけい》部を掻《か》き斬ってあった。よほどの腕力の熟練を併有《へいゆう》する者の仕業《しわざ》らしく、ほとんど首が離れんばかりになっていて、肉を貫いた斬先の痕《あと》が頸《くび》の下の敷石に残っていた。が、これはたんなる致命傷にすぎない。屍体の下半身は、酸鼻《さんび》とも残虐《ざんぎゃく》ともいいようのない、まるで猛獣が獲物の小動物を食い散らした跡のような、眼も当てられない暴状《ぼうじょう》を呈していた。屍《し》体の下腹部に被害者のスカートが掛けてあった。それを除去してみて、検屍の医師はじめ警官一同は慄然《りつぜん》としたのである。陰部から下腹部へかけて柘榴《ざくろ》のように切り開かれている。のみな
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