非常な大力《たいりき》でことによると、お狐さんの仕業ではあるまいか――そう言えば横丁の稲荷の前で、一度師匠が酔っぱらって小便をしたことがある。が、多くの世の名人上手がそうであるように、師匠も芸にかけては恐しく傲岸《ごうがん》で、人を人とも思わず、時には意地の悪い、眼に余るような仕打ちもあったそうだから、そこらから案外他人の恨みを買ったのではないかとも思われる。何しろ、四二の厄だから――。
 助五郎を刑事とでも思ったものか、若い衆はこうべらべら[#「べらべら」に傍点]饒舌り立てた。
 助五郎は面白くなった。そうして刑事になった気で歩き出した。助五郎は江戸っ児だ。寄席の飯を食って来ている。刑事に化けるくらいの茶気と器用さは何時《いつ》でも持ち合わせている。

     三

「師匠、在宅《うち》かえ? 署の者だ」
 艶拭きのかかった上框《あがりがまち》へ、助五郎は気易に腰をかけて、縁日物の煙草入れの鞘をぽうんと抜く。
「あの、署の方と仰言《おっしゃ》いますと――刑事さんで、まあ、このお暑いのに――」
 一眼で前身の判る又七女房おろくが、楽屋模様の中形《ちゅうがた》の前を繕いながら、老刑事助五郎へ煙草盆を斜めに押しやる。
「いや、もう、お構いなく」と助五郎は一服つけて、「おや、今日は稽古は?」
 と、初めて気が付いたように六畳の茶の間を見廻す。権現《ごんげん》様と猿田彦《さるたひこ》を祭った神棚の真下に風呂敷を掛けて積んである弟子達の付届《つけとど》けの中から、上物の白|羽二重《はぶたえ》が覗いているのが何となく助五郎の眼に留まった。おろくは少し狼狽《あわ》て気味に、
「旦那さんは何ぞ御用の筋があんなすって、どこぞへのお戻りでもござんすか」
 と話の向きを変えようとする。
「なあにね」助五郎は笑った。「ついそこのお稲荷さんまでお詣りに来やしたよ。あんまり御無沙汰するてえと、何時こちとらも溝水を呑まされねえもんでもねえから」
「あら、旦那――」おろくはちょっと奥へ眼を遣った。
「お内儀《ないぎ》、とんだ災難だったのう」
「あの、もう御存じ――」
「商売商売、蛇の道ゃ蛇さ」と、助五郎は洋銀の延べを器用に廻しながら「人気稼業の芸人衆だ。なあ、誰しも嫌な口の端あ御免だからのう、お前さんがひた隠しなさろうてなぁもっともだけれど、眷属さまにしちゃちっと仕事が荒っぽいぜ。時に、御病人は如何《いかが》ですい?」
「おろく」襖の彼方から又七の嗄れ声がした。
「何誰《どなた》だえ?」
「あの、警察の――」とおろくが言いかけるのを、
「者でがす」と引き取って、
「お眼にかかってお見舞《みめ》えしやしょう」
 ずい[#「ずい」に傍点]と上り込むとがらり[#「がらり」に傍点]境いの唐紙《からかみ》を開けて、
「ま、師匠、その儘《まま》で、そのままで」
 笛の名人豊住又七は麻の夜具から頭だけ出して、面映《おもは》ゆそうにちょっと会釈した。あの晩から熱が出たと言って、枕もとにはオポピリンの入った湯呑茶碗なぞが置いてあった。肝腎《かんじん》の咽喉を痛めているので、笛の稽古は休んでいるとのことだったが、それでも秘蔵の名笛が古代錦の袋に包まれて手近く飾られてあるのが、いかにもその道の巧者らしく、助五郎にさえ何となく床しく感じられた。
 事件の性質が稚気を帯びているのと、何しろ「乗物町さん」の名前に関することなので、はじめのうちは又七も苦り切っているばかりで容易に口を開こうとはしなかったが、次第に由《よ》っては握り潰さないものでもないという助五郎の言葉に釣られて、やがてその夜のことを逐一話し出した。
 が、すでに若造の口から引き出して来たこと以外、そこには何らの新しい事実もなかった。下谷《したや》七軒町《しちけんちょう》の親戚の法事へ行った帰り、この先きの四つ角へ差しかかると、自働電話の傍に立っていた男が突然|躍《おど》り掛《かか》って来て、はっ[#「はっ」に傍点]と思う間に自分の身体は、板を跳ね返して溝へ落ち込んでいた。と同時に、狼籍者《ろうぜきもの》は雲を霞と逃げ失せて、肋と頤へ怪我をした又七は、ようよう溝から這い出して、折柄通りかかったあの若造に助けられて自宅《うち》へ帰り着いたというのである。
 弟子や近所の手前は急病ということにして置いて、又七はそれからずうっ[#「ずうっ」に傍点]と床に就いている。傷は大したことはないがその時受けた驚きとあとから体熱が出たのとで、見るから衰えているようだった。一歩も人に譲らない体《てい》の人物だけに、この出来事が彼の自負心に及ぼしたところは大きかったとみえて、てん[#「てん」に傍点]で何処の何者の仕業とも判らないのが実に残念で耐《たま》らないと彼は幾度も口に出した。けれども直ぐその後から、
「痩せても枯れても笛の又七でございま
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