如何《いかが》ですい?」
「おろく」襖の彼方から又七の嗄れ声がした。
「何誰《どなた》だえ?」
「あの、警察の――」とおろくが言いかけるのを、
「者でがす」と引き取って、
「お眼にかかってお見舞《みめ》えしやしょう」
 ずい[#「ずい」に傍点]と上り込むとがらり[#「がらり」に傍点]境いの唐紙《からかみ》を開けて、
「ま、師匠、その儘《まま》で、そのままで」
 笛の名人豊住又七は麻の夜具から頭だけ出して、面映《おもは》ゆそうにちょっと会釈した。あの晩から熱が出たと言って、枕もとにはオポピリンの入った湯呑茶碗なぞが置いてあった。肝腎《かんじん》の咽喉を痛めているので、笛の稽古は休んでいるとのことだったが、それでも秘蔵の名笛が古代錦の袋に包まれて手近く飾られてあるのが、いかにもその道の巧者らしく、助五郎にさえ何となく床しく感じられた。
 事件の性質が稚気を帯びているのと、何しろ「乗物町さん」の名前に関することなので、はじめのうちは又七も苦り切っているばかりで容易に口を開こうとはしなかったが、次第に由《よ》っては握り潰さないものでもないという助五郎の言葉に釣られて、やがてその夜のことを逐一話し出した。
 が、すでに若造の口から引き出して来たこと以外、そこには何らの新しい事実もなかった。下谷《したや》七軒町《しちけんちょう》の親戚の法事へ行った帰り、この先きの四つ角へ差しかかると、自働電話の傍に立っていた男が突然|躍《おど》り掛《かか》って来て、はっ[#「はっ」に傍点]と思う間に自分の身体は、板を跳ね返して溝へ落ち込んでいた。と同時に、狼籍者《ろうぜきもの》は雲を霞と逃げ失せて、肋と頤へ怪我をした又七は、ようよう溝から這い出して、折柄通りかかったあの若造に助けられて自宅《うち》へ帰り着いたというのである。
 弟子や近所の手前は急病ということにして置いて、又七はそれからずうっ[#「ずうっ」に傍点]と床に就いている。傷は大したことはないがその時受けた驚きとあとから体熱が出たのとで、見るから衰えているようだった。一歩も人に譲らない体《てい》の人物だけに、この出来事が彼の自負心に及ぼしたところは大きかったとみえて、てん[#「てん」に傍点]で何処の何者の仕業とも判らないのが実に残念で耐《たま》らないと彼は幾度も口に出した。けれども直ぐその後から、
「痩せても枯れても笛の又七でございま
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