の化物が、大かたこっちへ移《す》みかえたものじゃろうて」
「違えねえ」
 坊主頭は大きく頷首《うなず》いた。湯水の音が一《ひ》としきり話しを消す。助五郎は軽石を探すような様子をしてふい[#「ふい」に傍点]と立ち上った。二人の遣り取りが続く。
「宵の口に町を歩いてる人間が、いきなり取って投げられるなんて――」
「まず妖怪変化《ようかいへんげ》の業《わざ》じゃろうな」
「なにさ、それが厄《やく》でさあ。もっとも、相手は確かに人間さまだったってますがね、さて、そいつが何処《どこ》のどいつだか皆目判らねえてんでげすから、世話ぁねえ」
「師匠は何かい、身に恨みでも受ける覚えがあるのかえ?」
 老人はこう言いながら湯槽へ沈んだ。
「お熱かござんせんか」と若造が訊いた。つづいて背後の破目板の銓を捻った。そして、
「なにしろ、これだからね」
 と両の拳を鼻さきへ積んで見せた。
 二三人這入って来た。湯を打つ水音に呑まれて、二人の声はもう助五郎の耳へは入らなかった。
 助五郎も聞こうとはしなかった。自暴《やけ》のように陸湯《おかゆ》を浴びた彼は、眼をぎょろり[#「ぎょろり」に傍点]と光らせたまま板の間へ上って行って籠の中から着たきり雀の浴衣を振って引っ掛けると、蠅の浮いている河鹿《かじか》の水磐を横眼で白眼みながら、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]と明治湯の暖簾を潜り出た。
 助五郎は金儲けのにおいを嗅いだ。張るの殴るの取って投げたという以上、これは明らかに彼の領分である。詳しいことを聞き出して手繰《たぐ》って行けば案外な仕事になるかも知れない。夏のことだから氷屋がある。その店頭へ腰を下ろした助五郎は、一本道の明治湯の方へしっかり気を配りながら坊主頭の若い衆を待ち受けた。

     二

 坊主頭の話というのはこうだった。一昨日の暮れ方、乗物町《のりものちょう》の師匠として聞えている笛の名人|豊住又七《とよずみまたしち》が、用達しの帰り、自宅の近くまで差しかかった時、手拭いで顔を包んだ屈強な男が一人|矢庭《やにわ》に陰から飛び出して来て、物をもいわずに又七を、それも、まるで猫の児かなんぞのように溝の中へ投げつけるが早いか、何処ともなく風のように消えてしまったというのである。又七師匠はどちらかと言えば小柄な方だけれど、とも角大人の人間をああ軽々と抛《ほう》り出したところから見ると、曲者は
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