ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (快活に)やあ、札木合《ジャムカ》。長い間|虐《いじ》めてすまなかったな、ははははは。おれは君に、どうしても告白しなければならないことがあって、途中から単騎、馬を飛ばして引き返して来たのだ。
札木合《ジャムカ》 ううむ、こんなにおれを踏み潰しても、なお飽きたらず、まだこの上に、おれの顔へ唾を吐きかけようというのか。面と向って嗤おうというのか。さ、嗤え! さ、笑ってくれ! (詰め寄る)
[#ここから3字下げ]
台察児《タイチャル》は刀の鯉口を切り、隙あらば斬りつけんと身構える。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (平然と)おれこそ君に、嗤ってもらおうと思って来たのだ。この顔に、唾を吐きかけてもらおうと思って来たのだ。おれの話を一通り聞いてから、どんなにでも笑ってくれ――まあ、聞け。この一と月の間、守る君も苦しかったろうが、攻めるおれも辛かったぞ。城中の窮乏ぶりが伝わってくるにつけて、おれは、身を切られるような思いをした。この城を囲むのは、初めから、おれの真意ではなかったのだ。まっすぐ乃蛮《ナイマン》へ攻め入りたかったのだが、四天王をはじめ部下のやつらは、きっとこのおれが、昔の合爾合《カルカ》姫のことを根に持って、君に恨みを懐いているだろうと思い、まず、この札荅蘭《ジャダラン》城を屠ろうと言って肯《き》かないのだ。おれも神様じゃあなかった。その家来たちの忠義立てを利用して、何年かの長い間、おれの胸の底に灼きついていた合爾合《カルカ》への恋を果そうとした。それが昨夜の、あの降伏の勧告だ。(自分を責め、蔑むように、強く)敵将の妻を、一夜貸せという――。(ぴたりと札木合《ジャムカ》の前に坐って、男らしく両手を突く)札木合《ジャムカ》っ! 悪かった! 許してくれ! おれは昨夜、月の洩る天幕の中で、良人のため、民のため、身を捨てて氷のように冷たくなっている、あの合爾合《カルカ》の――あの合爾合《カルカ》の眼を見た時、おれという人間が、この成吉思汗《ジンギスカン》という男が、泥草鞋《どろわらじ》のように汚く見えたのだ。毛虫のように醜く見えたのだ。(心からの声)神のように崇高《けだか》い合爾合《カルカ》の心と身体に、どうしてこのおれが、指一本さすことができようか――。(間)あの抗愛山脈の肩に、ぽうっと暁の色が動き初めると同時に、おれの心にも、夜が明けた。おれは合爾合《カルカ》に負けた。札木合《ジャムカ》! 君は幸福な男だ。合爾合《カルカ》のような立派な女を妻に持っているとは、(こころの底から)おれはほんとうに羨ましいぞ。
[#ここから3字下げ]
札木合《ジャムカ》と台察児《タイチャル》は、うなだれて聴き入っている。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 札木合《ジャムカ》! このまま行ってしまうことは、おれにはどうしてもできなかった。おれは、君の前に、こうして、手を突いて、心の底から謝罪《あやま》りに来たのだ。どうか、許してくれ。な、どうか許してくれ。
[#ここから3字下げ]
札木合《ジャムカ》兄弟は、呆然と佇立している。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (朗かに起ち上って)ああ、これでさっぱりした。身体中の汚れを洗い流したような気がする。(友達に対するように、無邪気に)では、札木合《ジャムカ》、乃蛮《ナイマン》をやっつけて、帰りにはきっと寄るよ。その時は、合爾合《カルカ》と二人揃って、おれをうんと御馳走してくれよ。きっとだよ。じゃ、さいならっ!
[#ここから3字下げ]
少年のように、気軽に行こうとする。札木合《ジャムカ》の手から、ばたんと抜刀《ぬきみ》が落ちる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
札木合《ジャムカ》 (喘いで)成吉思汗《ジンギスカン》! 待ってくれ!
成吉思汗《ジンギスカン》 何だ。何か用かい? (軽く引っ返して来る)
[#ここから3字下げ]
札木合《ジャムカ》はたまらず駈け寄り、成吉思汗《ジンギスカン》の腕を握り、涙の無言で屍骸の傍へ引っ張ってくる。そして、手早く、死体を隠してある屏風を除《と》る。旗で覆った合爾合《カルカ》姫の屍が現れる。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
札木合《ジャムカ》 成吉思汗《ジンギスカン》! 見てやってくれ!
[#ここから3字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》は跪《ひざまず》いて、静かに旗を取る。愕く。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改
前へ
次へ
全24ページ中23ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング