ともございません。(と嘘を言う。淋しく笑って)降伏の条件に、敵将の妻を所望なさるなどとは、きょうという今日こそは、あなたという人間に愛想がつきました。妾は、良人と、城下の人々を助けるために、来たのです。(強く寝台に起き上り、きっと成吉思汗《ジンギスカン》を睨み据えて、物体のように身を固くする。もう観念して、自暴自棄的にすべてを投げだしたこころ。鋭く)成吉思汗《ジンギスカン》! 勝ち誇った成吉思汗《ジンギスカン》! 何百人、何千人の犠牲《いけにえ》になってきたこの身体《からだ》を、さ、思う存分にして下さい! さ、なぜ早く自分の有《もの》にしないのです。(と眼を瞑《つぶ》る)
成吉思汗《ジンギスカン》 なにを――。
[#ここから3字下げ]
と、つかつかと寝台へ歩み寄る。が、姫の覚悟に気圧《けお》されて、ぴたりとそこへ釘づけになる。凄まじい間。姫は堅く眼を閉じ、身動きもせずに、成吉思汗《ジンギスカン》の襲って来るのを待つ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
成吉思汗《ジンギスカン》 (窒息的な間。激しい独り語)おれの気持を察して、部下がこの計らいをしてくれたのだ。おれはそれを利用して、この、一度はと狙っていた機会を掴もうとした。が、おれにはできない。そんなことは、おれにはできない。(沈思。突如、自分に呼びかけて)おい! 成吉思汗《ジンギスカン》! 貴様、どうかしてるぞ。貴様の恋人は、戦争じゃなかったのか。貴様は、若い血のすべてを、軍馬の蹴散らす砂漠の砂へ、投げ与えたはずではないのか。(壁の大地図へ眼が行き、駈け寄る)おお! (剣を抜いて地図を辿《たど》る)この、阿納《オノン》、客魯漣《ケルレン》、宇児土砂《ウルトサ》の三つの河の流れる奥蒙古の地は、貴様の父親《おやじ》、也該速巴阿禿児《エスガイパアトル》の志を起した平野じゃないのか。これが貴様の恋だ。これが貴様の全部だ。しっかりしろよ、成吉思汗《ジンギスカン》! (急に朗かに)あははははは、戦争だ、戦争だ、おれは、戦争のほか何ものもない。戦争さえしていればいい人間なんだ。合爾合《カルカ》、戦争の話をしてあげよう。ねえ、勇ましい合戦の話を――この成吉思汗《ジンギスカン》は、鉄の額をしているぞ。剣の嘴《くちばし》を持っているぞ。まだある、槍の舌を備えている。巌《いわお》のような心なんだ。い
前へ 次へ
全47ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
牧 逸馬 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング