アリイを乗せたまま、遠い一本道を鞭《むち》音高く馬車は消えてしまった。兄弟はこうして別れたのだ。
 事件の性質は一変した。もう、富豪の迷児《まいご》を見つけてお礼にありつこうなんかという暢気《のんき》なものではない。新しい命令が全市へ飛んで、警官はいっせいに緊張した。あわただしい電話と電報が深夜の空気をゆるがせて、即刻フィラデルフィアの外輪六十マイルにわたって警戒網が敷かれた。誘拐《ゆうかい》の前科者へはすべて動静を窺《うかが》うべく刑事が付けられた。普段から白眼《にら》んでいる市内外の|悪の巣窟《ロウクス・ネスト》へは猶予《ゆうよ》なく警官隊が踏み込んだ。が、この、七月一日の夜中から翌二日、三日とかけて総動員で活躍したその筋の努力は、なんら報《むく》いられなかった。問題の馬車に乗っていた二人の男も、チャアリイも、まるで大地にでも呑《の》まれたように、その片影すら見せないのである。
 こうなると、ロス氏としては、警察と神様を頼って祈るよりほか仕方がない。そのあいだのロス氏の気持は、じつに、自分の心臓を生きたまま食べるという形容のとおりだった。ゴルフで鍛えたロス氏が、一睡もしないために眼は凹《くぼ》み頬はこけて、まるで別人のようになった。彼は、一日《ついたち》の朝オフィスへ着て出た服のまま、昼夜ネクタイも取らずに吉報《きっぽう》を待って電話の傍《かたわ》らに立ちつくした。しかしそれでもロス氏の頭の隅には、まだまだ一|縷《る》の望みが宿っていた。というより、チャアリイの無事と早晩の帰宅を無条件に信じて、彼は疑わなかったのだ。こうはっきり[#「はっきり」に傍点]と、これが誘拐《ゆうかい》者の仕業《しわざ》とわかってみれば、相手の真の目的が金銭にあることはいうまでもない。そんなら、その金さえ出し惜しまない以上、なにも騒ぐことはない、動ずる必要はないわけである。金で話のつくことならおおいに御《ぎょ》しやすい。ロス氏はこう考えた。そしてそれまでは、大事な玉《スタフ》だから、先方もチャアリイに害を加えるようなことはあるまい。せっかくの子供《たま》を殺してしまったりしては、もとも子もないからである。で、いまさしあたって愛児の身に危険が迫っていようとは想像されないと自分に言い聞かせて、ロス氏は、この、安心できない安心に、無理にも縋《すが》らなければならなかった。
 いずれそのうちに誘拐《ゆうかい》者のほうから、なんらかの方法でなんとか言ってくるだろう。そうしたら、あと身代金《みのしろきん》の額の問題と、交換の場所方法などに関する交渉だけだ。いわば、事は取引になる。急報によって避暑先から帰って来ていた夫人にも、ロス氏はこう慰めるように言って、誘拐者の第一通信をじっ[#「じっ」に傍点]と待っていた。

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 が、いつまで待っていても仕方がない。で、ロス氏の方から、新聞広告を仲介に、進んで誘拐《ゆうかい》者へ話しかけた。七月三日付けのフィラデルフィア発行の諸新聞は、すべてこのロス氏の探人広告を大きく掲げている。いうまでもなく広告の形式はあくまでも一般公衆に宛《あ》てたもので、「チャアリイの発見、もしくはその所在を知るに役立つ報道を※[#「斎」の「小」に代えて「貝」、52−7]《もたら》した人へはそうとう以上の金員《きんいん》を呈する」むねをわざと簡単に記すにとどまり、犯人に警戒させないために深甚《しんじん》の注意を払ってあった。
 すると、ここに一つ、困った問題がおきた。というのは、どうせこの広告を見て、チャアリイは私の家にいますとか、これこれのところに、匿《かくま》われているのを知っているとか言って出てくる者があれば、それは犯人か犯人のまわし者にきまっている。しかしこれではまるで私が誘拐《ゆうかい》しましたと自首して出るようなもので、そんな馬鹿なことをするやつはあるまい。そうすると、隠れている誘拐《ゆうかい》犯人になにか音《ね》を出させるためには、ロス氏としては、まずなによりも、犯人にむかって絶対に逮捕の危険のないことを確保しなければならないのだが、警察は、その保証を与えることを拒絶した。
 警察の言い分ももっともである。
「なるほど、ロス氏は子供さえ取り返せばいいのだろう。そのためには、大金を出すことも辞しまい。ロス氏は金がある。事実、全財産を投げ出してもいいとまで言っているが、そんなことをされては、まるで誘拐《ゆうかい》者に賞金を与えるようなもの、この種の犯罪を奨励《しょうれい》するのも同じで、われわれの眼の下で、こういう取引が行なわれるのを、法として許すわけにはゆかない。金と交換に子供さえ返して寄こせば、警察は指一本触れないなどというのはもってのほかだ。そんなことがあっては無警察状態である。われわれの存在を無視し愚弄《ぐろう
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