であった。子供たちはそうすることがなぜか嬉しいのだ。しかし教員は反対にますます陰気な顔をしてこの騒ぎを看《み》ていた。朝っぱらから疲れきったように、ズボンのポケットに両手をつっ張ってぽかんとしていた。駈けこんできた子供はそれにぶっつかって、はっとする、そしてそこからきゅうにとりすまし白い壁の教室にのろのろはいって行くのであった。
 この建物の直接的な管理は、いかに義務教育を効果あらしめたか――という責任とともに、すべて月俸二百円なりのそこの校長の肩にかかっていた。師範学校を出ただけの彼が長い年月かかって捷《か》ちえたこの地位は、彼の白髪をうすくし、つねに後手を組まなければ腕が曲って見える危険さえ伴う、それほどの努力の結果であった。それを思うと彼は肩が凝《こ》り荷が重いのである。だが彼もまた最後の望みにこの帝都有数の校長として、せめては最高俸二百四十円なりに辿《たど》りつきたい、それには何をさて措《お》いても――と彼は頭をふりふり考えるのであった――まず第一に校舎を清浄に生命のある限り保たねばならぬ。市会議員はいうまでもなく、教育畑の視学でさえ最初に気づくのはこの校舎である、そしてあとで、しかも楯の両面のごとく教育上の新施設を器用に取り入れること――。校長は生徒を集める朝礼には決ってそれを訓諭した。
「皆さん、皆さんは先生の言いつけをまことによく守るよい生徒であり、またよい日本人でありますぞ。そこで日本の国をよくしようとする皆さんは、忘れずにこの学校をよくしようとします。この学校はたいへん綺麗《きれい》だと賞《ほ》められる――嬉《うれ》しいですね、それは皆さんが一生懸命に掃除をするからだ、掃除の好きなよい生徒がこんなにたくさんいるんですからには、いいですか? この学校が建った時よりもかえってますます綺麗になるわけでしょう? わかりますなあ……おお、わかった人は手をあげなさい」講堂にあふれている子供たちの手がいっせいに彼らの頭上に揺めきだした。校長は眼尻の皺《しわ》を深めてそっと周囲の壁を一瞥《いちべつ》する。子供たちの顔もそれにつれて素早《すば》やく一廻転する。その時老朽に近いこの校長は、たあいもなく満足の微笑を見せ、ひときわ声を高くして「よろしい――」と叫んだ。
「それでは皆さん、手を下して、よし……」
「しかし――」と校長は教員室の前で立ち停《どま》った。陰気くさくぞろぞろ歩いていた教員たちははっとして校長の顔を見かえる。すると彼はちょこちょこと杉本に追いついて君――とその肩をたたいた。「君の組は特別に注意してくれんと困るわい、手だけは人真似にはいはいとあげとったが、どだい君の受け持っとる低能組はわしの話を聞いとりゃせなんだ」
 午前九時かっきりになると、昇降口の扉はたった一枚だけをくぐり[#「くぐり」に傍点]のように半びらきにして、あとは全部使丁の手で閉じられてしまった。おくれかけた子供は恐怖の色を浮べてとびこんできた。柏原富次は鞄と傘と、緒《お》の切れた泥下駄をいっしょくたに胸にかかえていた。泥だらけのたたき[#「たたき」に傍点]を水洗いしていた使丁がいまいましげに舌打ちしてそれに呶鳴りつけた、「ばか野郎……そ、その泥足は何でえ……」ぴくりと富次は驚くのであるが、その時彼はえり頸を掴まえられてすでに足洗い場に運ばれていた。「それ、それ――」と使丁はがなりつける。「まだ踵《かがと》にいっぺえくっついてるじゃねえか――何だ、手前の脚は? 月に一ぺんぐらいはお湯にへえってんのか?」
「あたいはね、今日ね、お弁当を持ってきたんだよ」と富次は胸にたたみきれない喜びを露骨にあらわして、平然と使丁に話しかけた。「うそだと思うんだら、見せてやろうか? え?」
 図体の大きな使丁は、子供を荷物のように造作なく上り口に運びそこに立っている受持教師にそっぽを向いて話しかけた。
「いやはや、杉本さん、呆れけえった子供ですねえ――この餓鬼あ……」
 杉本は生温い両方の掌で、冷えた富次の頬を挾んだ。子供は上眼づかいに恐る恐るそれを見あげる。それを見あげる尖《とが》った顎から頬にかけてまっ黒い鬚がかぶさり、眼鏡の奥で黒い瞳が見つめていた。富次はようやくそれが自分の受持教師であることに気づいた。すると彼は紫色の歯ぐきを出してにこりと笑い、さっそく喋《しゃべ》りだした。
「あたいはね、先生――お弁当持ってきたよ、あたいん家《ち》ではね、昨日……だか何日だか、区役所からこんなにお米を買ってきてさ、そいでねえ、ねえ先生――」
「そうか――」と杉本は答え、まだまだ何か話したげな子供を促して階段を登るのであった。
「またあとで聞くからな、みんなが教室で待ちくたびれてんだろうよ」
 そんな単純な喜びを全身に感じてじっとしていられないような子供を、四十名近く杉本は受
前へ 次へ
全14ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
本庄 陸男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング