―しかし母親の剣幕が一番おそろしく、富次は紐《ひも》のちぎれた鞄を小脇にしっかり押え、こんな場合しかたなしに父親を視た。床の上に長くなっている父親は、いつか学校で見た磔《はりつけ》されるキリストみたいなひげ面で、眼ばかり異様に蒼光《あおび》からせていた。富次はぎょろりと動いたその眼にあわてて視線を壁に移した。するとそこには、医薬に頼れない病人が神仏に頼るならわしどおりに、不動明王の絵が貼りつけてあった。
「学校なんて行ったって――」と母親の言葉がきゅうにやさしくなった。「なあ富次、損しることはあっても一銭だって貰えるんじゃねえからよ、それよかお母あの仕事を手伝うもんだ、な、そしたらこんだ浅草へ連れてくからよ」
「小学校も出てねえじゃ、今時、小僧にも出られねえからよ」と父親が口を挾むのであった。富次はほっとして母親を視た。彼女はそっぽを向いてへんという風に鼻をしかめた。
「なあ、俺が丈夫になれば何とかしるからよ、子供に罪はねえんだし、学校にだけは出してやれよ」
「芝居みてえな口は聞き飽《あ》きたよ、え? お前さんも早く何とか片づくことだ」
 母親はそう言って亭主を一瞥《いちべつ》し、富次に向っては一喝《いっかつ》した。
「さっさと行っちまえ、このいやな餓鬼やあ――」
 柏原富次は右手に鞄を抱え、左手は傘の柄にからまして、しぶいている雨の中にとびだした。大通りは河になって流れていた。雨がっぱ[#「雨がっぱ」に傍点]にくるまった髯《ひげ》の交通巡査が、学校がよいの子供を自動車や電車から守り、子供たちの敬礼ににこにこしてみせた。

 城砦型に建てられた鉄筋コンクリートの小学校は、雨の日はみごとに出水する下町の中で、いやに目立って聳《そび》えていた。この一帯は一昔前、震災でぺろり焼け頽《すた》れた。生き残った住民たちはあたふた舞い戻ったのであるが、彼らは前よりもいっそう危かしい家に住まねばならなかった。ただ小学校だけは――さすがに政府の仕事だけあって、じつに堂々とできあがった。たとえばそれは、こんな雨の日でも、子供たちの視力を傷めないためにその採光設備を誇ったりした。それで内部の壁という壁はまっ白く塗られていた。無数の子供らが今朝も喚《わめ》きあってこの建物に吸いこまれる。傘をふりまわしたり、ゴム引マントを敲《たた》きつけたり、――とにかく昇降口は彼らの叫喚に震《ふる》えるの
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