体を後に向かせ、背後の白い壁をじっと指さして示した。
「ほーらねえ? 見えるだろう? 赤鉛ぺつ[#「ぺつ」に傍点]で書いてさ、ほーら、見えるだろう、ほーら」
杉本はその指に導かれてのそりのそり壁に近づくのであった。近づくにしたがってその楽書はしだいにはっきりしてきた。まったくその絵が絵として眼に映ると、彼の背筋がきゅうにぞくぞく粟立《あわだ》ってきた。なぜか恐ろしさと恥しさとに打たれて、彼は棒立ちになった。子供たちもまた緊張して声をのんだ。彼らは咄嗟《とっさ》にこの壁がどんなに大切なものであるかを思いだした。不機嫌に蒼ざめたこの教師が、壁を汚したことによってどんなに怒り猛るかしれないと思うのであった。すると何年かの間学校生活を余儀なくされた子供たちは、得体の知れない恐怖を描いて硬直してしまった。しかし杉本は反対に今は泣きたくなったのだ。「元木――」と彼は壁に面したまま子供を呼んだ。「お前はたいした凄い画描きさんだなあ、それだのにどうして学校の図画は……」そう言いかけて彼は咽喉がつまってしまった。楽書は赤鉛筆の心を舐《な》め舐め書かれた……であった。悲壮な顔をした男の脛には…………………さえ植えられていた。おずおずと教師に近づいた元木は、「おい、お前は!」と叫んで、がっちと自分の肩を押えた杉本を見あげるのであった。彼は教師の顔色からそれが怒りだす気持でないのを敏感に見て取ると、「先生――あたいは画がうまいだろう?」と言い放った。杉本は唇を噛んでまるで歔唏《すすりな》きを堪えるような顔をした。すると元木は教師の腕をとらえて「先生、あたいの絵よくできてんのかい?」とまた催促した。しかし杉本は急《いそ》がしく瞬きしながら言うのである。
「はやく消さなきゃ、元木、校長先生にどやされるぞ」
それを聞くと彼は「や!」と叫んでとび上った。「いけねえ――あ、いけねえ!」
たった一人のその声で教室じゅうが一時にざわめきだした。いけねえと気づいた時、彼らの頭にも反射的に消さねばならぬことが浮んだ。そう思うと彼らは一刻もじっと耐えることができなかった。白墨をこすりつけてみた、雑巾を一なで撫《な》でまわした子は泣きだした。二三人の子はばけつの尻を鳴らして水汲みに駈けだした。
厚いコンクリートの壁を揺ぶって、この騒音はふたたび全校舎にとどろいた。しかしここでは全員が一生懸命なのである。
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