をのみこむ音が聞えるのであった。教師はもうやけくそ[#「やけくそ」に傍点]になって御前試合の一くさりに手ぶり身ぶりまで加える。その最高潮に達したところで、席の真中にいた一人の子供が、ふたたびぴょこんと立ちあがった。
「先生え……ちょ、ちょっ、ちょっと」
「何んだ? 元木――」
しかし元木武夫はもう自分の席からとびだしてきて、ぬうっと教師の鼻の下につっ立つのであった。そうしたとっぴな行動に杉本は馴れきっていた。彼は元木を無視してさらに話をつづけだした。所在なくなったその子供は教卓に凭《もた》れかかった。そこからしばらく、がくがくと動いている教師の顎を眺め、眺めているうちに彼のだらしない唇のすみからは涎《よだれ》が垂れ落ちた。元木武夫は首をおとした。そして教卓にたまった涎の海に指をつっこみでたらめな絵を描き、その絵がまだ描きあがらぬうちにはたと自分の疑問に思い当った。もはや矢も楯もたまらなくなるのであった。「先生!」とひときわ高らかに叫んで教師の腰にぱっとしがみついた。元木は「大久保彦ぜえ門のお内儀さんは意地悪るばばあだったのかい」と一気に叫びつづけ、「ようよう、よう」とその腰骨を揺ぶるのであった。とたんに杉本は一足身体を退き子供のまじめくさった質問を避けようとした。すると元木武夫はくわっと逆上し、どがんと教師の股倉《またぐら》めがけて殴りつけてきた。
「よう――先生ッ!」
ふいを喰った杉本は、腰を曲げて両手に股倉を蔽い、瞬間とまった呼吸を呼び戻そうとした。そのおかしな恰好に元木武夫はまたもや自分の質問を忘れ、眼尻を下げてひとりげらげら笑いつづけていた。
教室が珍らしくしーんと静まるのであった。四十の並んだ顔が、今はこの話に異常な興味をそそられていた。杉本は自分の不ざまな恰好に気がついて子供たちを見まわした。が彼らの顔つきは、ただこの教師から出る返答を求めているにすぎなかった。杉本は恥しさに顔が火照《ほて》ってきた。奇妙な性格の元木武夫にぽかんと浮んだであろう大久保彦左衛門の女房が、何かものわかりの鈍いとされている児童の心をひどく打ったのである。劇《はげ》しく光る四十対の瞳に射すくめられて、解答をあたええない教師の顔はやがてしだいに蒼ざめてきた。すると元木武夫は、堰《せき》を突然断つようにげらげらまた笑いはじめる。教室の緊張がどっと破れてしまった。その騒音に包まれ
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