手次第としてあつた。今に残つてゐるその頃の美人画を見るに、折角美くしい顔面に五つも六つも「ムーシユ」を貼り附けたのがあるが、今から見ると、ただただ奇異なと云ふ感じを起させる位のものであるが、併し流行と云ふものは不思議な力を持つてゐるもので、それが流行《はやり》だと云ふことになると、どんなに不思議な、妙な、変てこ[#「変てこ」に傍点]な衣裳でも、髪の形でも、お化粧の仕方でも、その当時の人にはそれが美くしく見えたのである。フランス大革命時代に流行した「アンクロワイヤーブル」(その名からして『本当とは思はれぬ』と云ふ意味だ。)の服装などは、最も好い一例だと思はれる。
 概して、西洋の婦人方が流行を追ふことに浮身を窶す有様は、我々東洋人から見ると狂気の沙汰ではないかと思はれる程猛烈なものである。フランスのある学者が『若し倒立《さかだち》して歩《ある》くことが「流行《モード》」となつたとしたら、欧羅巴の婦人は些の躊躇もなく、みなそれを真似るだらう』と言うたことがあるが、これは多少皮肉ではあるが、西洋婦人の流行を追ふ心理状態を巧みに言ひ現はした言葉だと思はれる。「ムーシユ」もこの流行心理の作用で、十八世紀頃には大変はやつたもので即ち時粧となつたのである。
 今では「ムーシユ」の流行は大分|衰《すた》つたやうだが、併しまだ全く無くなつたわけではない。今でも古典的《クラシツク》な舞踊、例へばムニユイ又は西班牙踊を踊る時には必ずこれを著けることになつてゐるやうである。又|平常《ふだん》でも艶美を増す為めに是を用ゐる婦人も少なくはない。だから巴里あたりの化粧品の商店には大小色々な形をした「ムーシユ」を売つてゐる。而してその「ムーシユ」の色合にも深黒、青黒、浅黒などと種々変つたのがある。婦人方は自分の皮膚の色や目の色や髪の毛の色などとその調和を保つに最も適した色合、即ち自分に一番よく似合ふ「ムーシユ」を撰んで是を貼附するのである。
 併し現今では、「ムーシユ」の著け方は一八世紀頃とは大変違つてゐて、眼上三点の法則などに遵ふものは全くない。今では二つ以上は著けないやうだ。その一つは目の下の少し横の方と、下唇の右か左かへ一つ著けるのが普通に行なはれてゐるやうである。尤も、その人々の顔の形や目の色や髪の毛の工合と照し合せて、全体の調子を取る為めに上に述べた眼下、唇辺の定石以外の処、即ち頬部に著けたり、頤に著けたりする婦人もある。だからどこぞと一定の場所を指示することは出来ないが、今その一例を挙げて見ると、目に愛嬌が足りないとか、又は下頤が長過ぎるとかいふ場合に、その間延びのした処へ一点のムーシユを入れるといふ工合である。
 また「ムーシユ」は、啻に顔にばかり著けるのではない。婦人正装の場合、即ちデコルテの場合には、胸から肩から背中迄を露出するのであるから、「ムーシユ」を背中にも胸にも腕にも著ける。要するに黒と白とのコントラストを利用して全身にその艶美を増す為めの一つの化粧法なのである。

 上に述べて来たやうに、東洋では「ほくろ」を贅物として邪魔物扱ひにし顰蹙してゐるのに反して、西洋では厄介視せず、否寧ろ是を艶美を増すところの「美の豆粒」として尊重し、人工的にさへ是を模倣するに至つた原因は何であるかを尋ねてみるに、臆説ではあるが、それは東洋人と西洋人との皮膚顔面の色や、毛髪や、眼の色を異にしてゐるのが、その第一の原因ではなからうかと思はれる。
 東洋人の黄色い顔面に於ける「ほくろ」は、黄色と黒色との色調がそぐはぬので「ほくろ」があれば顔が却つて醜く見えるのである。加之、東洋人は髪の毛も、目の色も共に黒いのであるから、黒子《ほくろ》は邪魔にこそなれ、決して美を増すものとはならない。
 然るに白晢人種の西洋人にあつては、その蒼白いやうな顔面に一点黒色の「ムーシユ」は、白と黒とのくつきりした反対色の作用で白色は益※[#二の字点、1−2−22]白く光彩を放ち、美は益※[#二の字点、1−2−22]美しく見えるのである。是に加ふるに、西洋人の目の色の薄青く、その髪の色のシアーテン(焦げ茶色)、ブロンド(茶褐色)又は金髪、甚しきに至つては白色かと怪しまれる程の淡黄色なのさへもあるので、一点黒色の「ムーシユ」の為めに、顔全体に活気を生ずる効果を齎らすからである。例へば巧妙なる絵師が、山も林も野も川も一白皚々たる雪景色に、二三羽の飛鴉をあしらつて、その絵の全体を活動させるのとよく似ている。又ちやうど「万緑叢中紅一点」といふのと均しく、僅か一点の紅色の為めにそれを囲繞する艸群《くさむら》は一段とその緑色を増すが為めに、その叢全体が生気溌剌、新鮮な気が庭全体に溢れるやうに見えるのと同じく、西洋人の満白顔中黒一点は、その顔色を殊更に白く美しく見せるのみならず、一点の黒子《ほくろ
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