。併し写真機の大きな眼鏡と、見知らぬ人が此処にゐるので犬は益※[#二の字点、1−2−22]恐れてゐる。みんながトリユックの怜悧さうな顔を映したいといふので……アンネットさんはやさしく媚びるやうに笑つて是をすかさん[#「すかさん」に傍点]と試み、園丁は拳固を振り上げて威嚇して見たが、犬は少しも肯《き》くどころか、いこぢになつてお尻の方を写真師に向けてゐる。併しそこは商売柄だけあつて写真師のアンリー・メレーはトリユックがちよつと首を後へ向けた時、がちやん! 犬も見事に撮影されてしまつた。

 今我々は枝葉の翳つてゐる庭園を散歩してゐるのである。この夏は余り暑くなかつたので樹の葉はまだ青々して、(ただ処々に褐色の葉が芝生の上に散点するのみで。)そよそよと吹く北風に戦いでゐる。それが恰もどーどー鳴る濤の音を偲ばせる。……寒がりのコッペ先生は早や鳶合羽の様な外套を着てござる。詩人はこの濤の音と草木の香の中で極めて楽しさうで、而して如何にも満足らしい。先生は、自分が選んだこの隠遁所が余程気に入つたものと見える。而してそれは至極尤もな次第である。如何かと云ふに一生働き抜いて、少しずつ貯めた金で、この田舎の屋敷を買つて、緑色の鎧扉のある簡素な別荘に引退して、始めて永い間の夢想を現実したのだから。コッペ先生が如何に誠実な感動を以て此の平和な、質素な生活の快味を屡々其の詩の中に歌つたことか! この芝生を、この薔薇壇を、此の花垣を、この白色の回墻と、赤煉瓦の屋根と而して遠くの方には、累々と重さうな実が赤く熟した林檎畑と、丸々とよく出来た球菜の畠を眺めながら、僕は僕の家にゐるのだ。これはみんな僕のものだ、而して是等は僕の勉強一つで、正直な手段で贏ち得たのであると、心の満足が自然口に出るのも尤もなことではないか。
 先生が独りで、又はその仲よしの妹さんの腕に倚つて此の苺園の小径を逍遥する時に、黄昏のメランコリーと共に、その憐れな子供の時の記憶が一々頭に浮び出るであらうことを、僕は想像せぬ訳にはゆかぬ。古風で而して質素なサロンや食堂や特に献身的な慈愛を以て多くの子供等をそれぞれ皆立派に育て上げて、苦労し抜いて死んだお母さんの影が先生の記憶の真つ先に浮び出ることであらう。で、コッペ先生は今日も亦お母さんの事を話された。
「私の父は陸軍省の属官で、母との間に八人の子供があつたのですが四人だけが生存してゐます。三人は女の子で私は末子だ。父の僅かな俸給で生活して行かねばならないので、母の苦労は一通りではなかつたのです。当時は今と違つて、金はなくとも役人といふ地位は世間から尊敬されたものであつたのですから、たとへ貧しいながらも、ブールジヨワ階級に属して而して母は「奥様《マダーム》」の権式を捨てたくなかつたのです。そこで母は勇気と切り盛りの巧みさと精励とで何一つ不足のないやうに家政をやり繰りして、行かなければならないので、今日の家庭の主婦の模範と呼ばれる人でさへも、かくまでは行届くまいと思はれるのです。三人の娘はいつも清楚な服装で頑童の僕さへきちん[#「きちん」に傍点]と整つた身なりをしてゐた。時たま親類や友達などが尋ねて来る際には茶も菓子も飛び切りの上等品を出したもので、世間づきあひなども一分のひけもとらない実に立派なものでした。だからこの奥様が下女同様に朝は五時に起きて台所から、家内の掃除、子供等の着物の灑ぎ洗濯迄、一人でするなどとは、誰一人思ふ者はなかつたのです。が月末になるとね……夕飯が極めて手軽でして……併しナプキンは貴族の食堂のそれの如くいつも、真白に光つてゐたものです。而して、夏は綺麗な、香気の高い花で、食卓が飾られてゐた。私が母の事を話しだしたら、それは明日になつたつて尽きやしません。
 母は快闊な人であつたので、家族のものの元気を引立てる為めに常時も働き乍ら笑つてをられた。本当ですよ! 最も窮迫の際には、平素よりも、更に一層元気でした。おかげで僕の家は金がない代り、いつも笑声満堂といふ有様でした。
 処が残念な事には、この苺園の桃や杏や李を母は手づから摘み採る事が出来るまで、長生きせられなかつたことです。若し生きてをられたらどんなに甘美《おい》しいジャムやコンポットが沢山に出来た事でせう! 而して母もこの野菜畑をどんなに喜ばれたでせう。」と詩人は暫時無言で……ひたすら回憶の深淵に沈潜すると云つたやうな様子であつた。成る程この屋敷の野菜畑は実際素晴しいもので、単に詩人の野菜園などといふものではなく、御料地の野菜畑とでもいふべきものだつた。見果てもつかぬ程の広さで、処々に二三百年の大樹が茂つてゐて、立派な並木道があつて、而して幾何学の図面のやうに規矩整然たる花壇や菜園には、大きな南瓜や、うまさうなサラダが時を得顔に繁茂してゐる。
 そこで、僕達はそろそ
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