と見える。これについても、今をもって古《いにしえ》を推すの危険な事が知れる。
 余談はさておき、大岡忠相が髯を抜いたのも、板倉重宗が茶を碾《ひ》いたのも、その趣旨は全く同一で、畢竟その心を平静にし、注意を集中して公平の判断をしようとする精神に外ならぬのである。髯を抜きながら瞑目して訟を聴くのも、障子越に訟を聴くのと同じ考であろう。司直の明吏が至誠己を空《むな》しうして公平を求めたることは、先後その揆《き》を一にすというべきである。

     *

 大正四年十一月四日相州高座郡小出村浄見寺なる大岡忠相の墓に詣でて
   問ひてましかたりてましをあまた世をへたててけりな道の友垣
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 四〇 模範的の事務引継


 板倉重宗が京都所司代を辞職した時には、大小の政務|悉《ことごと》く整理し尽し、出訴中の事件は皆裁決し了《おわ》って、一も後任者牧野佐渡守を煩すべきものを遺さなかったが、ただ一つ、当時評判の疑獄であって、世人の眼を聳《そばだ》ててその成行を見ておった一事件のみは、そのままにして引継いでしまった。そこで口善悪《くちさが》なき京童《きょうわらわ》は、「周防殿すら持て余
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