versity Press, Cambridge.)および拙著英文「日本新民法論」(The New Japanese Civil Code, pp. 29−35. 2nd ed.)中にも載せてある。後に聞くところに拠れば、ドイツには我輩より先に「母法」「子法」に相当する語を用いた者があるとの事であるが、通用の学語としては行われておらなかった。
また我輩が拙著「隠居論」の始めに隠居の起原を論じて、「隠居俗は食老俗、殺老俗、棄老俗とその社会的系統を同じうし、これらの蛮俗が進化変遷して竟に老人退隠の習俗を生ぜり」と述べたが、この説もその根本思想をドイツのヤコブ・グリムの説に得たものだという人がある。我輩はドイツでは老人を棄てる習俗が後世退隠俗を生じたというグリムの「ドイツ法律故事彙」中の記事を引用して、自説の支証とするつもりであったが、これもまた舶来説と思われたと見える。
これらの事は、我邦の学問は古来外国から輪入せられたもので、漢学時代においては支那の学者は特別にえらいものと思い、支那の故事を知り支那の学説を知るのが即ち学問であると考え、西洋の学問が渡ってからはまだ日も浅く、新学問にお
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