vは返り点]「若レ謂二之万国公法一、尚未レ見二万国允従一」といい、また「現有之公法、則多出レ於二泰西奉レ教之国、相待而互認之例一」などあり、支那にもまだインターナショナル・ローは行われておらぬから、万国の語を用いなかったのではないかと思われる。その後ち光緒六年(明治十三年)に、同氏がブルンチュリーの Das moderne Voelkerrecht als Rechtsbuch を漢訳したときもこれを「公法会通」と題した。
 明治二年出版の「外国交際公法」という書があるが、これは福地源一郎氏がマルテンスの「外交案内」(R. Martens, Diplomatic Guide)を訳したものであるから、この書の題を国際法の名称と見ることは出来ぬ。また明治三年二月に発布された「大学規則」および同年閏十月に定められたる「大学南校規則」にも「万国公法」とあるが、明治七年に東京帝国大学の祖校なる東京開成学校において法学の専門教育を始められた時の規則には「列国交際法」となっておる。当時我邦に舶来しておった国際法の書は殆どホウィートンとウールジーの二書に限っておったが、ウールジーの書は簡明な教科書であ
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