の頃に至って、始めて用語も大体定まり、不完全ながら諸科目ともに邦語をもって講義をすることが出来るようになったのであった。
 かくの如く法学をナショナライズするには、用語を定めるのが第一の急務であるが、諸先輩の定められた学語だけでは不足でもあり、また改むべきものも尠《すく》なくなかったので、明治十六年の頃から、我輩は宮崎道三郎、菊池武夫、栗塚省吾、木下広次、土方寧の諸君と申合わせて、法律学語の選定会を催したのであった。その頃九段下の玉川堂が筆屋と貸席とを兼ねておったが、その一室を借りて、ここで上記の諸君と毎週一回以上集会して訳語を選定したのであった。また一方にあっては、明治十六年から大学法学部に別課なるものを設けて、総《す》べて邦語を用いて教授することを試みた。
 かような経験があるから、我輩は法政学語の由来については、一通りならぬ興味を持っている。故に今、我輩の記憶を辿って、重《おも》なる用語の由来について、次に話してみようと思う。勿論、中には記憶違いもあろうし、また遺漏も少なくあるまいが、これに依って法律継受の経路の一端を窺うことは出来るであろうと思うのである。
[#改ページ]

 
前へ 次へ
全298ページ中131ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
穂積 陳重 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング