に此故とは申難きことなれども、私《ひそか》に是を考へ思ふに、扨《さて》御奉行と申《もうす》は日々に諸方の公事訴訟を御裁判被レ成、御政務の御事繁く、平人と違ひ、年中に私の御暇有る事稀也、然ども遊女などの艶色を御覧の為にはあらざれ共、遊女はもと白拍子《しらびょうし》なり、されば御評定所の御会日の節、白拍子などを御給仕に御召あり、公事御裁許以後、一曲ひとかなでをも被二仰付一、 御慰に備へられん為に、上様より被二仰付一しものか云々。
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まさか「天下の政道を取|捌《さば》く決断所での琴三味線」「自分のなぐさみ気ばらしをやらるる」重忠様もなかったであろう。
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 三二 判事ガスコイン、皇太子を禁獄す


 判事総長ガスコイン(Chief Justice Gascoigne)が太子ヘンリー親王を禁錮に処した事は、古代の記録にも残っており、また往々英米の小学読本などにも載っている最も有名な話である。
 英帝ヘンリー第五世がまだ太子であった頃、或るとき親王の寵臣某が偶《たまた》ま罪あって捕えられ、遂に「王座裁判所」(King's Bench)において公判を開かれることとなった。
 年少気鋭なる親王はこれを聴いて大いに怒り、すぐさま自ら法廷に赴いて「直ちに被告を釈放せよ」と声も荒らかに裁判官に命ぜられた。法廷に並びいる者はこれを見て愕然としてただ互に顔を見合せるのみであったが、裁判長ガスコインは徐《しず》かに太子に向って、「殿下―私は殿下が彼の近臣の王国の法律に依って処分せらるることに御満足あらせられんことを希望致します。しかしながら、もし法律または裁判にして余りに酷なりと思召すこともあるならば、父君なる皇帝陛下に特赦の御請願を遊ばさるるが宜しう御座いましょう」と丁寧に言上した。親王はこの諫《いさめ》を耳にも掛けず、自ら被告の手を執ってこれを連れ去ろうとせられたから、ガスコインはこれを制止し、大喝一声、親王に向って退廷を命じた。親王はこれを聴いて烈火の如く怒り、剣の柄《つか》に手を掛けて驀然《ばくぜん》判事席に駆け寄り、あわや判事に打ち懸《かか》らんず気色《けしき》に見えた。判事総長は泰然自若、皇太子に向って励声《れいせい》一番した。「殿下、本官は今皇帝陛下の御座を占めつつあることを御記憶あらせられよ。皇帝陛下は実に殿下の父君にしてまた君主にておわします。故に殿下は二重に服従の義務を負い給うものではありませぬか。本官は今陛下の名をもって殿下にこの不法なる暴行を禁じ、且つ将来殿下の臣民たるべき者に対して法律|遵奉《じゅんぽう》の模範を殿下自ら御示しあらんことを勧告いたします。殿下は既に法廷侮辱の罪を犯されたのであります。故に本官はこれに対して殿下を王座裁判所の獄に禁錮し、もって皇帝陛下の勅命を待たんとするものでございます。」
 この儼然犯すべからざる法官の態度に打たれて、さすがの親王もしばらくの間は茫然として佇立《ちょりつ》しておられたが、忽ち悟るところあるが如く、手に持った剣を抛《なげう》ち、法官に一礼の後《の》ち、踵《きびす》を回《めぐ》らして自ら裁判所の拘留室へ赴かれた。
 この事の顛末《てんまつ》を聴かれた皇帝は歓喜極りなく、天を仰いで神に拝謝し、「朕《ちん》はここに畏くも我上帝が、正義を行って懼《おそ》れざる法官と、恥辱を忍んで法に遵《したが》う皇儲《こうちょ》とを与えられたる至大の恩恵を感謝し奉る」と叫ばれたという事である。
 右の皇帝の言葉は、近頃の書物には通常左の如く書いてある。
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“Happy is the king who has a magistrate possessed of courage to execute the laws; and still more happy in having a son who will submit to the punishment inflicted for offending them.”
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 しかるに、右の親王が位を継いでヘンリー五世となり、その後ち崩御された直ぐ後にサー・トマス・エリオット(Sir Thomas Elyot)の著わしたThe Governorという書には左の如くある。
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“O merciful God, howe moche am I, above all other men, bounde to your infinite goodness, specially for that ye have gyven me a juge, who feareth not to minister justyce, and also a sonne, who can 
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