上の不可思議といわねばならぬ。
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 三〇 ガーイウスに関する疑問


 ガーイウスは、羅馬《ローマ》五大法律家の一人で、サビニアン派に属し、著述もなかなか多く、殊に「十二表法」の註釈、および「金言」(Aurea)と称するものは有名である。氏の学説は、ユスチニアーヌス帝のディーゲスタ法典中に引用せられたものが多く、また同帝のイーンスチツーチョーネス法典は、氏の同名の書に拠ったものであることは、人のよく知っているところである。しかるに、古来ホーマー、シェクスペーアの如き偉人の事跡が、往々疑問の雲に蔽《おお》われていると同じく、ガーイウスの事跡の如きもまた同じ運命を免れることが出来ないのは、史上の奇現象というべきであろうか。
 第一に、氏の生死の年月が不明である。ただディーゲスタ法典中の文章に拠って、ハドリアーヌス帝の時代には、氏は既に成人であったということを推測し、氏の著書が、アントーニーヌス・ピウス帝(Antoninus Pius)、ヴェルス帝(Verus)、マールクス・アウレーリウス帝(Marcus Aurelius)の時代に係るものであることを、その記事によって知り得るのみである。
 第二に、氏の国籍が不明である。モムゼン(Mommsen)は外蕃の人であるといい、フシュケ(Huschke)はローマ人であると主張し、吾人をして転《うた》たその適従に苦しましめる。
 第三に、氏が答弁権(Jus respondendi)(法律上の問題に対し答弁をなす公権)を有せしや否やについても学者の所説は一致しない。或学者は曰く、ディーゲスタ法典編纂委員が受けたユスチニアーヌス帝の訓令には、皇帝の勅許に基づく答弁権を有したる法曹の説のみを蒐集すべしとある。しかるに、同法典中ガーイウスの説を引用すること殊に多いのを見れば、ガーイウスが答弁権を有しておったことは明白であろうという。しかるに、反対論者の説に拠れば、ガーイウスの著書は甚だ多いが、氏の答弁というものは一も存在していない。故に、氏は状師ではなく、教師または純然たる法学者であって、答弁権は有していなかったのであろう。ただ氏の学識が深遠で、名声|嘖々《さくさく》たるよりして、委員などは、帝の訓令に拘泥せずに、氏の学説を法典中に編入したものであろうというておる。
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 三一 評定所に遊女


 評定所は徳川幕府の最高等法院で、老中および寺社奉行・町奉行・勘定奉行の三奉行らが、最も重大なる訴訟を評議裁判する所であった。
 「棠蔭秘鑑《とういんひかん》」に拠れば、評定寄合《ひょうじょうよりあい》は、寛永八年二月二日、町奉行島田弾正忠の邸宅に、老中が集会して、公事《くじ》の評定をしたに始まったようである。その後ちは、酒井|雅楽頭《うたのかみ》、酒井讃岐守、並に老中の邸で会議を開いたのであったが、寛永十二年十一月十日に評定衆の任命があり、同じ年の十二月二日からは評定所で会議を開き、それより毎月二日、十二日、二十二日をもって評議の式日と定めた。
 「甲子夜話《かつしやわ》」に依れば、評定所の起原は、国初の頃、町中に何か訴訟事がある時に、老職以下諸役人の出席を乞うて、裁許を願うたのに始ったのである。この当時は、上述のように私人より願うて評定してもらったから、食物なども皆町中より持運び、また役人たちの給仕には、皆遊女を用いたのであった。しかるに、その後ち官家の制度も漸々《ぜんぜん》と具備するようになり、官から評定所を建築し、飲饌《いんせん》も出し、給仕には御城の坊主を用いるようになったのである。また遊女を評定所へ出す際には、船に乗せて往来させたのであったが、その船には屋根がなくて、夏は甚だ暑いから、その船に屋根を造る事を願い出でて許されたのである。屋根船はこれから始まった。また遊女のことを「サンチャ」と称していたから、屋根船は旧《ふる》くは「サンチャ船」というたそうである。しかし現今では、この名称を知る人は稀になった。また評定所の傍の岸に、船を着ける場所があって、そこを「吉原ガンギ」というたのは、昔遊女の船を繋《つな》いだ処だからだという。(当時の吉原は、現今の数寄屋町にあったそうだ。)
 この話にあるように、神聖なる最高法院の給仕に遊女を出したのは、現今の考えからは殆んど信じ得られない事であるが、当時の遊女に対する考えは現今とは全く異なっておった。
 遊女を評定所の給仕として差出したことについて「異本洞房語園」に次の如く記している。
[#ここから2字下げ、「レ一二」は返り点]
吉原開基の砌《みぎり》より寛永年中まで、吉原町の役目として、御評定所へ太夫遊女三人|宛《ずつ》、御給仕に上りし也。此事由緒故実も有る事にやと、或とき予が老父良鉄に尋ねとひしに、良鉄が申けるは、慥《たしか》
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