法窓夜話
穂積陳重

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)倦《う》み

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大岡|捌《さば》き

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#27字下げ]英国ロンドンにおいて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)せん/\のせいはいにおゐてハ、
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 一 パピニアーヌス、罪案を草せず


 士の最も重んずるところは節義である。その立つやこれに仗《よ》り、その動くやこれに基づき、その進むやこれに嚮《むか》う。節義の存するところ、水火を踏んで辞せず、節義の欠くるところ、王侯の威も屈する能わず、猗頓《いとん》の富も誘うべからずして、甫《はじ》めてもって士と称するに足るのである。学者は実に士中の士である。未発《みはつ》の真理を説いて一世の知識を誘導するものは学者である。学理の蘊奥《うんのう》を講じて、天下の人材を養成するものは学者である。堂々たる正論、政治家に施政の方針を示し、諤々《がくがく》たる※[#「※」は「言+黨」、第4水準2−88−84、21−7]議《とうぎ》、万衆に処世の大道を教うるは、皆これ学者の任務ではないか。学者をもって自ら任ずる者は、学理のためには一命を抛《なげう》つの覚悟なくして、何をもってこの大任に堪えられよう。学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ。学理の存するところは即ち節義の存するところである。
 ローマの昔、カラカラ皇帝|故《ゆえ》なくして弟ゲータを殺し、直ちに当時の大法律家パピニアーヌス(Papinianus)を召して、命じて曰く、
[#ここから2字下げ]
朕、今ゲータに死を賜えり。汝宜しくその理由を案出して罪案を起草すべし。
[#ここで字下げ終わり]
と、声色共に※[#「※」は「勵−力」、第3水準1−14−84、22−4]《はげ》しく、迅雷《じんらい》まさに来らんとして風雲大いに動くの概があった。これを聴いたパピニアーヌスは儼然《げんぜん》として容《かたち》を正した。
[#ここから2字下げ]
既に無辜《むこ》の人を殺してなお足れりとせず、更にこれに罪悪を誣《し》いんとす。これ実に第二の謀殺を行うもの。殺親罪を弁護するはこれを犯すより難し。陛下もし臣の筆をこの大悪に涜《けが》さしめんと欲し給わば、須《すべか》らくまず臣に死を賜わるべし。
[#ここで字下げ終わり]
と答え終って、神色自若。満廷の群臣色を喪《うしな》い汗を握る暇もなく、皇帝震怒、万雷一時に激発した。
[#ここから2字下げ]
咄《とつ》、汝|腐儒《ふじゅ》。朕汝が望を許さん。
[#ここで字下げ終わり]
暴君の一令、秋霜烈日の如し。白刃一閃、絶世の高士身首その処を異にした。
 パピニアーヌスは実にローマ法律家の巨擘《きょはく》であった。テオドシウス帝の「引用法」(レキス・キタチオニス)にも、パピニアーヌス、パウルス、ウルピアーヌス、ガーイウス、モデスチーヌスの五大法律家の学説は法律の効力ありと定め、一問題起るごとに、その多数説に依ってこれを決し、もし疑義あるか、学説同数に分れる時は、パピニアーヌスの説に従うべしと定めたのを見ても、当時の法曹中彼が占めたる卓然たる地歩を知ることが出来よう。しかしながら、吾人が彼を尊崇する所以《ゆえん》は、独り学識の上にのみ存するのではない。その毅然たる節義あって甫《はじ》めて吾人の尊敬に値するのである。碩学の人は求め得べし、しかれども兼ぬるに高節をもってする人は決して獲易《えやす》くはない。西に、正義を踏んで恐れず、学理のためには身首処を異にするを辞せざりしパピニアーヌスあり。東に、筆を燕《えん》王|成祖《せいそ》の前に抛《なげう》って、「死せば即ち死せんのみ、詔や草すべからず」と絶叫したる明朝の碩儒|方孝孺《ほうこうじゅ》がある。いささかもって吾人の意を強くするに足るのである。吾人はキュージャスとともに「法律の保護神」「万世の法律教師」なる讃辞をこの大法律家の前に捧げたいと思う。ギボンは「ローマ帝国衰亡史」に左の如く書いた。
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“That it was easier to commit than to justify a parricide” was the glorious reply of Papinian, who did not hesitate between the loss of life and that of honour. Such intrepid virtue, which had escaped pure a
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