だ廃せられざるものがあったから、判事エレンボロー卿(Lord Ellenborough)は、「これ国法なり」(It is the law of the land)の一言をもって衆議を圧し、決闘の請求に許可を与えた。しかし決闘は実際には行われなかったが、被告の見幕に恐れをなして、原告は訴訟を取下げてしまったのである。
かくてこの事件も無事に治ったが、さて治らぬのは輿論《よろん》の沸騰である。決闘裁判の如き蛮習を絶つには、須《すべか》らく復讐を根本思想とせる「殺人私訴」を廃すべきであるとの議論が盛んに主張せられ、一八一九年の議会において、二対六十四の大多数をもって、「殺人私訴法」(Appeal of Murder Act)を議決した。これによって殺人その他重罪の私訴は廃せられ、その結果、決闘裁判の請求もソーントンをもって最後とすることとなった。
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三九 板倉の茶臼、大岡の鑷
板倉周防守重宗は、徳川幕府創業の名臣で、父勝重の推挙により、その後《の》ちを承《う》けて京都所司代となり、父は子を知り子は父を辱しめざるの令名を博した人である。
重宗或時近臣の者に「予の捌《さば》きようについて世上の取沙汰は如何である」と尋ねたところが、その人ありのままに「威光に圧されて言葉を悉《つく》しにくいと申します」と答えた。重宗これを聴いて、われ過《あやま》てりと言ったが、その後ちの法廷はその面目を一新した。
白洲《しらす》に臨める縁先の障子は締切られて、障子の内に所司代の席を設け、座右には茶臼《ちゃうす》が据えてある。重宗は先ず西方を拝して後ちその座に着き、茶を碾《ひ》きながら障子越に訟《うったえ》を聴くのであった。或人怪んでその故を問うた。重宗答えて、「凡《およ》そ裁判には、寸毫《すんごう》の私をも挟んではならぬ。西方を拝するのは、愛宕《あたご》の神を驚かし奉って、私心|萌《きざ》さば立所《たちどころ》に神罰を受けんことを誓うのである。また心静かなる時は手平かに、心|噪《さわ》げば手元狂う。訟を聴きつつ茶を碾くのは、粉の精粗によって心の動静を見、判断の確否を知るためである。なおまた人の容貌は一様ならず、美醜の岐《わか》るるところ愛憎起り、愛憎の在るところ偏頗《へんぱ》生ずるは、免れ難き人情である。障子を閉じて関係人の顔を見ないのは、この故に外ならぬ」と対《こ
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