罰を加えるという決意を示したことであるから、囚人らが必ず帰還すべき理由があったのであって、その大部分が帰って来ることは、当初より予期せられたところであろう。彼らの中の或者が、その郷里に逃げ隠れようとしたが、郷人らのために告発せられたということも、「むさしあぶみ」に載せている。即ち石出帯刀のこの処置は、欧陽修のいわゆる「天下の常法となすべき」ものであって、決して「異を立ててもって高しとなす」ものではなかったのである。
 現行の監獄法第二十二条にも、天災地変に際して、他に護送避難の遑《いとま》がない時は、一時囚人を解放し、二十四時間内に更《あらた》めて監獄または警察署に出頭させるという規則があって、石出流の応急処分が今日においても是認せられている。
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 七九 大儒の擬律


 正徳の頃、武州川越領内駒林村の百姓甚五兵衛とその忰《せがれ》四郎兵衛の両人が、甚五兵衛の娘「むす」の夫なる伊兵衛という者を、彼がその当時住居していた江戸から、宿元なる同村へ一寸帰って来た際に、これを絞殺して河中へ投じた事件があった。娘は勿論それが何人《なんぴと》の所為であるかを知らずに、これを官に訴えたが、だんだん取調の結果、自分の実父および実兄が下手人であった事が明白になったのである。ここにおいて、子がその父兄の罪を告発して、そのために父兄が死刑に処せられるという事態になって来た。しかるに、川越の領主秋元但馬守は、「闘訟律」には[#「」内の「一二」は返り点]「告二祖父母父母一者絞」という本文もあるが、この場合この女子を、尊長を告発したという罪に当てることの可否を決定し兼ねるというので、遂に幕府にその処置を伺い出たのである。
 そこで、幕府では、当時の儒官林大学頭信篤(鳳岡)および新井筑後守(白石)に命じて擬律せしめることになった。林大学頭は、前記「闘訟律」の本文「告二祖父母父母一者絞」[#「」内の「一二」は返り点]を引用し、また「左伝」にある、
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鄭《てい》の君がその臣|蔡仲《さいちゅう》の専横を憎んで、蔡仲の聟《むこ》に命じて彼を殺害させようとした時に、蔡仲の娘がそれと知って、もしこの事を父に告げると、夫が父のために殺されるし、もしまた告げないと父が夫のために殺されるということを思い悩んだ末、終に母に向って、父と夫と何れが重親なるかと問うたところが、母がそ
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