lが夫人に対して深厚なる感謝を捧げざるを得ないところである。この挙たるや、真にサラー夫人が、その夫のために最も高貴なる記念碑を建立したものと言わねばならぬ」と記している。
 この賢夫人サラーの生涯は、実に一立志伝である。しかのみならず、その夫の遺著に題した序文は、絶代の名文と称せられているものであって、我輩はこれを読むたびにひたすら感涙を催すのである。我輩は毎年大学における法理学の講壇にてオースチンの学説に説きおよび、この夫人サラーの功績を語る時には、毎《つね》にこの序文をもって、かの諸葛孔明の「出師表《すいしのひょう》」に比するのである。古人は、「出師表」を読んで泣かざる者は忠臣にあらずといったが、我輩はサラー夫人のこの序文を一読して感涙に咽《むせ》ばない人は、真の学者ではないと評したほどであった。故に、以下少しくこの貞操なる賢婦人の性行事業について、話してみようと思う。
 サラー夫人はオースチンに嫁して後《の》ち、夫とともに居を首府ロンドンに移し、クヰーンス・スクェアー(Queen's Square)と称する町に寓しておったが、偶然かあるいは故意にか、その住宅は、かの有名なるベンサム(Bentham)およびゼームス・ミル(James Mill)両大家と軒を並べていたのであった。随ってオースチン夫妻は、この二|碩学《せきがく》およびゼームス・ミルの子なるジョン・スチュアート・ミル(John Stuart Mill)らと親しく往来して、交を結んだ。オースチンおよびその夫人が、後年ベンサムの実利主義(Utilitarianism)をもって、その法理学の根底としたのも、その基づくところは、あるいはこの時の親密なる交際にあったかも知れないのである。その他当時いやしくも英国の大学者と称せられた者で、サラー夫人の才学を慕って、その家を訪ずれ、その客とならなかった人は稀であったということである。タイムス紙はこの事を記して、サラー夫人は当時有名なる文学者であったけれども、その性質は極めて貞淑恭謙で、自ら進んで名を求めるような事は一切これを避け、且つまた夫人の家は富裕でなかったから、その客室の什器の如きも、甚だ質素であって、室内に装飾と称し得るような物は、絶えてなかった。しかしながら夫人サラーの客間には、ロンドン府の如何なる貴顕富豪といえども、これを集めることの出来ない当世の大学者が
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