の黙契に背戻《はいれい》するものではないか。
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と言うて、縷々《るる》自己の所信を述べ、故にかかる契約を無視すれば、正義を如何にせん、天下後世の識者の嗤笑《ししょう》を如何にせん。もしクリトーンの勧言に従って脱獄するようなことがあれば、これ即ち悪例を後進者に遺すものであって、かえって彼は青年の思想を惑乱する者であるという誹毀者らの偽訴の真事であることを自ら進んで表白し、証明するようなものではないかといい、更に、
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正義を忘れて子を思うことなかれ。正義を後にして生命を先にすることなかれ。正義を軽んじて何事をも重んずることなかれ。
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と説き、滔々《とうとう》数千言を費して、丁寧親切にクリトーンに対《むか》って、正義の重んずべきこと、法律の破るべからざることを語り、よりてもって脱獄の非を教え諭したので、さすがのクリトーンも終《つい》に辞《ことば》なくして、この大聖の清説に服してしまったのである。
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 七 大聖の義務心


 古今の大哲人ソクラテスが、毒杯を仰いで、従容《しょうよう》死に就かんとした時、多数の友人門弟らは、絶えずその側に侍して、師の臨終を悲しみながらも、またその人格の偉大なるに驚嘆していた。
 ソクラテスは鴆毒《ちんどく》を嚥《の》み了《おわ》った後《の》ち、暫時の間は、彼方此方《あちらこちら》と室内を歩みながら、平常の如くに、門弟子らと種々の物語をして、あたかも死の影の瞬々に蔽い懸って来つつあるのを知らないようであったが、毒が次第にその効を現わして、脚部が次第に重くなって冷え始め、感覚を失うようになって来た時、彼は先《さ》きに親切なる一獄卒から、すべて鴆毒の働き方は、先ず足の爪先より次第に身体の上部へ向って進むものであるということを聞いておったので、自分で自分の身体に度々触れて見ては、その無感覚の進行の有様を感じておった。そうして、それが心臓に及ぶと死ぬるのであると言うておったが、やがてそれが股まで進んで来た時、急に今まで面に被っていた布を披《ひら》いて、クリトーンを顧みて次の如く語った。
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クリトーンよ、余はアスクレーピオスから鶏を借りている。この負債を弁済することを忘れてはならぬ。(プラトーンの「ファイドーン」編第六十六章)
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