国王なしの政治をした事が「十八史略」にも、
[#ここから2字下げ、「二相」の「二」をのぞいて「レ一二」は返り点]
於レ是国人相与畔。王出二奔※[#「※」は「上に彑、下に比を置き、比の間に矢が入る」、第3水準1−84−28、205−5]一。二相周召共理二国事一。曰二共和一者十四年(而王崩于※[#「※」は「上に彑、下に比を置き、比の間に矢が入る」、第3水準1−84−28、205−5]。)
[#ここで字下げ終わり]
と見えているから、国王のない政体は、共和政治というが宜しいであろうといわれた。
 省吾氏はその教に従うて、レピュブリークに共和政治という訳語を用いられ、これが今に至るまで襲用される事になったのである。
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 六○ 「人より牛馬に物の返弁を求むるの理なし」


 明治五年にマリヤ・ルーヅ事件なるものが起った。その事実の大要は次の如きものである。同年七月にペルー人ペロレーなる者が、清国|澳門《マカオ》において同国人二百三十人を買入れて奴隷とし、これを自己の所有船マリヤ・ルーヅ号に載せて本国に連れ帰る途中、横浜に寄港した。しかるに同港において、一名の支那人が海に飛び込んで脱れようとし、折柄碇泊中のイギリスの軍艦に救われ、英国公使はその処分を我政府に要求して来た。そこで我政府はマリヤ・ルーヅ号を抑留し、取調べの上ことごとく支那人を解放してこれを本国に送還した。船主ペロレーは形勢の非なるを見て脱走してその本国に帰り、自国政府に要請し、同政府より我政府に対《むか》って抗議を提出し、且つその損害賠償をも請求して来ることとなった。しかし論弁容易に終決せず、竟《つい》に露国皇帝の仲裁を乞うことととなったが、結局我政府の勝利となって、事件は漸《ようや》くその局を結ぶこととなった。
 しかるに、この仲裁裁判においてペルー政府は「人身売買は日本政府の公認するところである、日本政府は国民に対して芸娼妓などの人身売買を公許して置きながら、他国民に対してこれを禁ずるは、その理由なきものである」と抗争したのであった。これについて、当時の司法卿江藤新平氏の伝記なる「江藤南白」の著者は、実に左の如く記している。
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我国は此事件に由りて「ペロレー」の非行を矯《た》め得たるも、同時に日本政府は今尚ほ斯《かか》る非行を公行する未開国たる事実を正式に世界に暴露したるの
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