訴えることとなった。
かくてメレートスやアヌトスなどの詐言《さげん》のために、とやかくといろいろ瞞着《まんちゃく》された結果、種々の裁判の末に、我大聖ソクラテスは遂に死刑を宣告せられることとなった。
さて、いよいよ死刑が執行されるという日の前日になって、ソクラテスの門弟の一人なるクリトーンはソクラテスに面会して、この不正なる刑罰を免れるために脱獄を勧めようと思って、早朝その獄舎に訪ねて来た。来て見たところが、ソクラテスは、さも心地《ここち》よさそうに安眠しておったのである。クリトーンは、師がその死期の刻々に近づきつつあるにもかかわらず、かく平然自若たるを見て如何にも感嘆の情を禁《とど》めることが出来なかったが、やがてソクラテスの眠より覚めるのを俟《ま》って、脱獄を勧めた。
クリトーンは、裁判の不正なること、刑罰の不当なることを説いて、師がかく生命を保ち得られる際に、自ら好んで身を死地に投じてこれを放棄せられるのは、むしろ悪事を敢えてなさんとせられるものであって、今甘んじてこの刑に就くのは、これ即ち敵人の奸計に党《くみ》するものであるといわねばならぬと述べ、またこの際、妻や子供らを見捨てるのは、師が平素から、子供を教養することの出来ない者は子を設けてはならぬと言われておった垂訓にも悖《もと》るものであり、またこの容易にして且つ危険のない脱獄を試みないのは、畢竟《ひっきょう》、善にして勇なる所業をなさないものであるから、平生徳義の貴ぶべきことを唱導せられた師としては、甚だ不似合なことで、自分は、師のためにも、はたまたその友たるクリトーン自身のためにも、慚愧《ざんき》の念に堪えざる次第であると説き、なおその辞をつづけて、
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サア、どうぞこの処を能《よ》く能《よ》く御考え下さいまし。否もう御熟考の時は已《すで》に過ぎ去っております。――私どもは決心せねばなりませぬ。――今の場合、私どものなすべきことはただ一つだけ、――しかも、それを今夜中に決行せねばなりませぬ。――もしこの機会を外したなら、それは、とても取り返しが附きませぬ。――サア、先生、ソクラテス先生、どうぞ私の勧告をお聴き入れ下さいまし。
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情には脆《もろ》く、心は激し易いクリトーンが、かくも熱誠を籠めて、その恩師に対《むか》って脱獄を勧めたのであった。ソクラテスは
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