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右に挙げた書名に依って見ても、一九〇三年に出来たものが最も多いことが分る。なおこの他にも諸国の学者の研究の結果がその後ち沢山公にせられたことであろうと思う。
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四三 ゴルチーンの石壁法
一 発見の前駆
ギリシアのクレート島はヨーロッパにおいて最も古く法制の備った所として有名である。ゴルチーンは、クノッセ、ソクトースと相並んで同島の三大都府の一と称せられた市府であって、古代は貴族政治が行われておって、一定の貴族が交代して政《まつりごと》を行い、立法権は市民議会に属し、司法権は同島を数個の裁判区に分って単独判事がこれを行っておったものである。
一八六三年、フランスのトノン氏(L'abbe Thenon)[#「L'abbe」の「e」はアクサン(´)付き]は、このクレート島において古文を彫刻してある一個の石片を獲たが、氏はその文を「考古学雑誌」(Revue archeologique)[#「arche−」の「e」はアクサン(´)付き]に掲載してこれを学界に紹介した。この石片は後ちにルーブル博物館に陳列せられたが、これに刻んである文辞は、断片的ではあるけれども、養子に関する法律の規定であって、多分有名なるゴルチーン法の一部であろうとの考証を与えられた。
しかるにこの後ち十七年を経て、アウッスーリエー氏(Haussoulier)もまた二個の石片を発見して、これを「ブュルタン・ド・コルルスポンダンス・エレニーク」(Bulletin de correspondance hellenique)[#「helle−」の2番目の「e」はアクサン(´)付き]誌上において公表した。この二片は甚だしく毀損しているが、その一片には婚約に関する規定を記し、他の一片は殆んど全部難読であるけれども、前後の関係から推せば、これには女戸主の財産に関する規定を記しているものらしく考えられる。
この前後二回の発見は、あたかもペルシアでアッスルバニパル王の図書館の遺跡を発掘した際に発見した石片が、ハムムラビ法典発見の先駆となった如くに、その後ち学者は必ずやどこかにおいてこの法律の全部を発見することが出来るに違いないとの希望を抱くようになった。
二 壁法の発見
一八八四年の夏、クレート島のハギオイ・デカ(Hagioi Deka)なるゴルチーン市の古址
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