随ってその治世についても、多数の学者は五十五年であると言うておるが、四十三年であると言う人もある。我輩門外漢は素《もと》よりその孰《いず》れに適従すべきかを知ることは出来ぬが、かような事は必ずしも多数説が正しいということは出来ぬは勿論である。一通り読んでみたところに依れば、二一〇〇年代説および四十三年説の方が論拠が強いように見える。ハムムラビ王は即位以後三十年間は鋭意治平の術を講じ、祭祀を尚《たっと》び、民の訟を聴き、運河を通ずるなどの事をなし、民心和し国力充実したる後ち、第三十年目に至って四隣征服の役《えき》を起し、数年にしてバビロン全部を統一した。この征服戦以前においては、ハムムラビの王国はバビロンの北部一半であったが、この戦争のためその南部諸市府を併せたのである。ハムムラビ王の石柱法典は、このバビロン統一戦争の後における治安策および統一策のために制定せられたもので、王の晩年の事業であるということは、法典の前文中に征服した諸市府の名が記してあるのみならず、後文中に王が既に老年に達していると言うておる文章が二箇所あるに拠っても明らかである。
八 ハムムラビ法典とモーゼの法律
ハムムラビ法典の発見後、比較法学上種々の新問題を惹起《ひきおこ》したが、その中で最も重要なものは、ハムムラビ法典とモーゼの法律との関係である。或はモーゼの法律は直接にハムムラビ法典を継受したものであるといい(直接継受説)、或は間接にアラビヤ人を通じて継受したものであるといい(間接継受説)、或はまた両法共にアラビヤ古法より来ったものであるといい(共同法源説)、また或はこの二法の類似は往々古代法において観るところの暗合に過ぎぬと言うておる者もある(暗合説)。その他前挙四種の説中にも種々の異論があって、未だ学者の説が一致してはおらぬが、多数の学者はこの二法の間には本末または共源の関係があることを認めているようである。
この二法典の関係を論定するは、一般の法学の知識の外、特にセミチック語、旧約全書の歴史などに通ぜねば出来ぬ事であるし、且つこの夜話の目的としては余り精微の点に入り過ぎるから、ここにはその論点を紹介することを略するが、この問題の詳細を知らんとする者は、左の諸書に就いて見るがよかろう。
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Johannes Jeremias, Moses und Hammur
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