なはだ広くして解し難く、ために大なる誤解を生ずることあり。そもそも人生の事柄の繁多にして天地万物の多き、実に驚くべきことにて、その数幾千万なるべきや、これを知るべからず。ただその物名のみにても、ことごとくこれを知る者は世にあるべからず。然るをいわんや、その者の性質をや。ことごとくこれを教えんとするも、とても人力にかなわざる所なり。人間衛生の事なり、活計の事なり、社会の交際、一人の行状、小は食物の調理法より大は外国の交際に至るまで千差万別、無限の事物を僅々《きんきん》数年間の課業をもって教うべきに非ず、学ぶべきに非ず。たとえ、その一部分にてもこれを教えて完全ならしめんとするときは、かえってその人の天資を傷い、活溌|敢為《かんい》の気象を退縮せしめて、結局世に一愚人を増すのみ。今日の実際においてその例少なからず。されば到底この繁多なる事物を教えんとするもでき難きことなれば、果して世に学校なるものは不用なるやというに決して然らず。
 もとより直接に事物を教えんとするもでき難きことなれども、その事にあたり物に接して狼狽《ろうばい》せず、よく事物の理を究めてこれに処するの能力を発育することは、ずいぶんでき得べきことにて、すなわち学校は人に物を教うる所にあらず、ただその天資の発達を妨げずしてよくこれを発育するための具なり。教育の文字はなはだ穏当ならず、よろしくこれを発育と称すべきなり。かくの如く学校の本旨はいわゆる教育にあらずして、能力の発育にありとのことをもってこれが標準となし、かえりみて世間に行わるる教育の有様を察するときは、よくこの標準に適して教育の本旨に違《たが》わざるもの幾何《いくばく》あるや。我が輩の所見にては我が国教育の仕組はまったくこの旨に違えりといわざるをえず。
 試に今日女子の教育を視よ、都鄙《とひ》一般に流行して、その流行の極《きわみ》、しきりに新奇を好み、山村水落に女子英語学校ありて、生徒の数、常に幾十人ありなどいえるは毎度伝聞するところにして、世の愚人はこれをもって教育の隆盛を卜《ぼく》することならんといえども、我が輩は単にこれを評して狂気の沙汰とするの外なし。三度の食事も覚束《おぼつか》なき農民の婦女子に横文の素読を教えて何の益をなすべきや。嫁しては主夫の襤褸《ぼろ》を補綴《ほてい》する貧寒女子へ英の読本を教えて後世何の益あるべきや。いたずらに虚飾の
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