幽鬼、神霊の説は、現に今日も、かの上等社会中に行われて、これを疑う者、はなはだ稀《まれ》なるが如し。いずれも皆、真理原則の敵にして、この勁敵《けいてき》のあらん限りは、改進文明の元素は、この国に入るべからざるなり。
我が日本にもこの敵なきに非ざりしかども、偶然の事情によりて大いに趣《おもむき》を異にするところあり。我が国において、鬼神幽冥の妄説は、多くは仏者の預るところとなりて、もっぱら社会に流行したることなれども、三百年来、儒者の道、ようやく盛にして、仏者に抗し、これに抗するの余りに、しきりに幽冥の説を駁《ばく》して、ついには自家固有の陰陽五行論をも喋々《ちょうちょう》するを忌《い》むにいたれり。たとえば、儒者が易経《えききょう》を講ずれども、ただその論理を講ずるのみにして、卜筮《ぼくぜい》を弄《もてあそ》ぶを恥ずるが如し。その仏を駁撃するはあたかも儒者流の私《わたくし》なれども、この私論《しろん》の結果をもって惑溺を脱したるは、偶然の幸というべし。
支那の儒者も孔孟の道を尊び、日本の儒者も孔孟の書を読み、双方ともにその教の源《みなもと》を同じゅうして、その社会に分布したる結果におい
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