思わざるべからず。子生るれば、父母力を合せてこれを教育し、年齢十歳余までは親の手許《てもと》に置き、両親の威光と慈愛とにてよき方に導き、すでに学問の下地《したじ》できれば学校に入れて師匠の教を受けしめ、一人前の人間に仕立《したつ》ること、父母の役目なり、天に対しての奉公なり。子の年齢二十一、二歳にも及ぶときは、これを成人の齢《よわい》と名づけ、おのおの一人の了管《りょうけん》できるものなれば、父母はこれを棄てて顧みず、独立の活計を営ましめ、その好む所に行き、その欲する事をなさしめて可なり。
ただし親子の道は、生涯も死後も変るべきにあらざれば、子は孝行をつくし、親は慈愛を失うべからず。前にいえる棄てて顧みずとは、父子の間柄《あいだがら》にても、その独立自由を妨げざるの趣意のみ。西洋書の内に、子生れてすでに成人に及ぶの後は、父母たる者は子に忠告すべくして命令すべからずとあり。万古不易《ばんこふえき》の金言、思わざるべからず。
さてまた、子を教うるの道は、学問手習はもちろんなれども、習うより慣るるの教、大なるものなれば、父母の行状正しからざるべからず。口に正理を唱《となう》るも、身の行い鄙劣《ひれつ》なれば、その子は父母の言語を教とせずしてその行状を見慣うものなり。いわんや父母の言行ともに不正なるをや。いかでその子の人たるを望むべき。孤子《みなしご》よりもなお不幸というべし。
あるいは父母の性質正直にして、子を愛するを知れども、事物の方向を弁ぜず、一筋に我が欲するところの道に入らしめんとする者あり。こは罪なきに似たれども、その実は子を愛するを知て子を愛するゆえんの道を知らざる者というべし。結局その子をして無智無徳の不幸に陥らしめ、天理人道に背く罪人なり。人の父母としてその子の病身なるを患《うれえ》ざるものなし。心の人にしかざるは、身体の不具なるよりも劣るものなるに、ひとりその身体の病を患《うれえ》て心の病を患えざるは何ぞや。婦人の仁というべきか、あるいは畜類の愛と名づくるも可なり。
人の心の同じからざる、その面《おもて》の相異《あいこと》なるが如し。世の開《ひらく》るにしたがい、不善の輩《はい》もしたがって増し、平民一人ずつの力にては、その身を安くし、その身代を護るに足らず。ここにおいて一国衆人の名代《みょうだい》なる者を設け、一般の便不便を謀《はかっ》て政律を立
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